les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ゴダールの最新インタヴュー

2012年創刊のフランスの映画雑誌『Sofilm』の最新号(Mai 2015, nº30)にゴダールのロング・インタヴューが載っている(p.48-60)。インタヴュアーは、編集長のティエリー・ルナス。映画の製作・配給・出版を精力的に手がけているCapricciの創設者のひとりである。

ところで、前エントリーで書き忘れたが、映画の出版物に関しては、Capricciのコレクションからも目が離せない。出版活動が始まってからまだ十年も経たないはずだが、邦訳のあるモンテ・ヘルマンのインタヴュー『モンテ・ヘルマン語る---悪魔を憐れむ詩』や、編集者ウォルター・マーチの『映画の瞬き[新装版] 映像編集という仕事』にとどまらず、リュック・ムレやルイ・スコレッキやミシェル・ドラエといった「古参兵」たちの評論集、ジョン・フォードヴィンセント・ミネリジョージ・キューカーオットー・プレミンジャーらの古典的映画作家からガレル、デュラス、ブラッケージ、アドルフォ・アリエッタらの前衛に至る作家論、さらにはジャック・ランシエールのベラ・タール論、ペテル・サンディ(Peter Szendy)のアポカリプス映画論や、フレドリック・ジェイムソンやスタンリー・カヴェルの翻訳まで幅広く刊行しているので、いつの間にか、わたしの書棚でCapricciの本がだんだん目立ってくるのも当然だろう(ちなみに、ピアニストのフィリップ・カサールが映画について語り下ろした『二拍子、三楽章』というとても面白い本もあり、彼がもっと有名だったら訳してみたいところなのだが……)。

さて、肝心のゴダールのインタヴューに戻って、いくつか読み所を紹介しておこう。まず、気が早い人のために末尾で明かされている情報から紹介すると、次回作のタイトルだけは決まっているようで、『映像と言葉:青の試み』Image et Parole: Tentative de bleu、あるいは『青の試み』となるそうだ。ただし、このところ企画をスタートする際の一種の導きの糸としてタイトルだけ先に決めるという傾向があり、このインタヴューでも内容に関する説明はいっさいない。

ゴダールは2015年3月に、スイス映画賞の名誉賞を受賞した。インタヴューは、その賞金3万スイスフランを、ニヨンの動物保護団体とエトワの野鳥保護団体とアムネスティ・インターナショナルと自分とで四等分したという話題から始まる。授賞式に行かない代わりにゴダールが作成した5分たらずの短篇が、現時点でのゴダールの最新作だ(YouTube等で手軽に見られるこの作品の理解のためには、このサイト採録が有用である)。杖をついて歩く84歳のゴダールが、『右側に気をつけろ』のスラップスティック的で奇矯なパフォーマンスを年齢相応に演じ直しているかのように(ちなみにインタヴューによると、ゴダールはシャルリ・エブド襲撃事件の後、「脊柱に発作のようなもの」が起きて、一ヶ月半にわたって入院していたらしい)、床に寝そべり、最後に起き上がる身体動作が印象的なこの作品の主題は、ゴダールもインタヴューで語っているように、かつてフランス映画、ドイツ映画、アメリカ映画が存在したようには「スイス映画はもはや存在しない」ということ、そして「慎ましやかな腐敗」(パゾリーニの詩集『グラムシの遺骸』からとったという)としてのスイスである。

ゴダールは『リベラシオン』と『シャルリ・エブド』の長年の愛読者である。『ゴダール・ソシアリスム』に出演している経済学者のベルナール・マリスは、惜しくもシャルリ・エブド襲撃の犠牲となったが、彼を起用したのも『シャルリ』のコラムを読んでいたからだという。ゴダールは、「わたしはシャルリ」という標語にも手厳しく、同じ「Je suis Charlie」でも「suis」を動詞suivreの活用形として読んで「わたしはシャルリを追う」という方がいい、実際に自分は40年間シャルリを追いかけてきたんだから、などと言う(ただし、『勝手にしやがれ』にすでに前身の『アラキリ』Hara-Kiriの売り子が出てくると語っているのは、『カイエ・デュ・シネマ』の売り子との記憶違いだろう)。êtreという動詞(英語でいうBE動詞)を使うとろくなことはないというのは、近年のゴダールがよく強調していることだ。

ギリシャ財政問題についてもゴダールはユーモラスな見解を述べる。クリス・マルケルの13話からなるテレビ番組『フクロウの遺産』L'Héritage de la chouette (1989)を見れば、私たちが「すべてをギリシャの思想に負っている」ことがわかる。この作品を見さえすれば、「ドイツ、ヨーロッパ、ギリシャの間の問題は解決する」、と。さらにゴダールは言う。「文章を作って、「ゆえに」と言うたびに、ギリシャ人たちは著作権料として10ドル受け取るべきであって、そうすればもうギリシャの負債などなくなるだろう」。三段論法もギリシャ人が作ったのだから、ということだろう。

他者の言葉、他者の映像を使ってみずからの作品を作るゴダールは、基本的に知的所有権なるものを認めていないが、それでもよく著作権のことを話題にする。彼は「興味を持った抜粋を、権利のことを気にかけずに使」ってきたが、これまで訴えられたことはないと述べ、判例を得るためだけにでも、ミエヴィルにわざと訴えてもらおうかと思っている、などと語る。しかし、ゴダールは『ゴダールリア王』(1987)でヴィヴィアーヌ・フォレステルのエッセイ(確か『La violence du calme』)を無断で使用したことで本人と出版社から2004年に訴えられ、罰金を支払わせられたはずなのだが、忘れてしまったのだろうか……(訴えられたのが2004年なのは、本作がフランスでは2002年まで封切られなかったからだろう)。ともあれ、法廷で判事が「エヴァン法」と言うたびにエヴァン氏に権利料を払わなければいけないのではないかとか、テレビなどで写真が使われるとき、写真家にだけお金が支払われて、被写体には決して支払われないのはおかしいとか、ゴダールは一見すると突拍子もない例を挙げつつ、権利料の欺瞞に注意を促している。

後者の例は、ただちに、ゴダールが『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)以来、たびたび取り上げている写真家リュック・ドラエが1992年にサラエヴォで撮った、爆発物によって血まみれになって地面に横たわるビリャナ(Biljana)という名の少女の写真のことを思い起こさせる(写真はこのページなどで見られる)。ゴダールは『フォーエヴァー・モーツァルト』で一瞬この写真を画面に出しているが、その際、写真家ではなく、この少女に許諾を求めたという。ちなみに、ゴダールは『映画史』(1988-98)の3Aや『アワーミュージック』(2004)でもこの写真を使っており、さらに『真の偽造パスポート』(2006)ではビリャナ本人が(エステル・フレイの2004年のドキュメンタリー作品『ビリャナ』からの引用で)登場する*1。イメージの流通をめぐる問いかけは、少なくともここ20年にわたってゴダールの主要な関心事であり続けている。

その他にも、ケルアックの『オン・ザ・ロード』を映画化したかったとか(奇妙な名前の村として知られるトゥルース・オア・コンシクエンシーズからクレイジー・ウーマンまでの道のりを描きたかったらしい)、ダニエル=コーン・ベンディットがブラジルのワールドカップに行ったときにスラム街の貧民たちに取材して撮ってきたルポルタージュはひどいとか、コッポラとの共同企画として存在したロサンジェルス・オリンピックの撮影はぜひ実現させたかったとか、パウロ・ブランコとの企画もかつて存在して、資金を前借りしたのだが、彼の母親の病気の療養費のために企画を中止してお金を返却したとか、自分は予算を超過することは決してないとか、月に600ユーロの年金しか受け取っていないとか、このくつろいだ雰囲気のインタヴューには雑多な話題がちりばめられている。

だが、インタヴュー後半で最も興味深いのは、ゴダールがアトリエの窓のない奥まった部屋*2にティエリー・ルナスを連れて行き、3つのディスプレイが配置されているのを見せるところだろう。『にがい米』が映し出されていたというその3つのディスプレイが、正確にどのように配置されているのかまでは残念ながら文章からは読み取れないが、ゴダールがその文脈でアベル・ガンスの『ナポレオン』の三面スクリーンの試みを引き合いに出しつつそれとは違うと述べていることからも、おそらくは見る者を取り囲むようなかたちで置かれているのだろう。彼はさらに、実際にこの3つのディスプレイで編集作業を行ったと述べ、その作業を「彫刻」と比較する。ここには『さらば、愛の言葉よ』の3Dを考えるにあたっての大きなヒントがあるのではないだろうか。

*1:この顛末については、Jean-Christophe Ferrari, « Histoires de Biljana: Droit des images, devoir de reprise », Jean-Luc Godard: Documents, Centre Georges Pompidou, 2006, p.372-375を参照。

*2:ちなみに、このロールのアトリエは、ゴダールとミエヴィルが長年使用していた住居兼アトリエとは異なり、製作会社のワイルド・バンチに最近になって借り上げられた「前哨地点」(ゴダール)である。ちなみに、この奥まった部屋をゴダールは「イギリス人たちのところ(Chez les Anglais)」と呼んでいる。ワイン貯蔵庫として使われていた部屋で、戦争中にこの手の場所にイギリス人飛行士をかくまったことを想起させるからだという。