les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

日本映像学会第41回全国大会のシンポジウム

去る5月30日(土)・31日(日)に京都造形芸術大学で開催された日本映像学会第41回全国大会で、シンポジウム「映画批評・理論の現在を問う――映画・映像のポストメディウム状況について」に登壇したので、忘れないうちにその感想を概要とともに記しておく。なお、ここでのまとめは、登壇者の発言を忠実に再現することを目的とするものではなく、わたしにとって強く印象に残った部分だけをごく選択的に拾ったもので、しかもわたし自身の感想とすでに混じり合ってしまったものなので、思わぬ誤解もあるかもしれないことをお断りしておく。

およそ3時間におよぶシンポジウムの前半では、北小路隆志の司会のもと、パネリストのうちの4名がおのおの20-30分程度のプレゼンテーションを行った。

まず、プロデューサーの岡本英之氏(わたしにとっては、彼がミュージシャン・俳優として出演した濱口竜介の『親密さ』でのしっとりとした歌唱シーンが鮮烈に印象に残っている)が、自身が運営するLOAD SHOWの紹介を軸にしながら、現在の映画の興行・批評を考えるにあたってヒントとなるようないくつもの事例を提供してくれた。LOAD SHOWはストリーミングやダウンロードで自主製作映画の配信を行っているが、とりわけ印象に残っているのは、「これからは配信だ」というような考えで事業を展開しているわけではないという氏の留保である。LOAD SHOWで過去開催したという映画祭の事例――受賞作だけでなく、エントリーされたすべての作品を視聴できるプラットフォームとしても機能する映画祭――にもみられるように、デジタル・プラットフォームは限りない可能性を秘めたものにも思えるのだが……。

もうひとつ印象づけられたのは、批評の不在という話で、映画批評から食べログ的なレビューへの移行がみられるという点。LOAD SHOWのカルチャーサイトには映画をめぐる先鋭的な情報が集約されているが、それと並行して、現在の状況に対するささやかなオルタナティヴを開拓しようとするのが、おそらく、もうすぐ創刊される小雑誌『映画横丁』(編集人は『映画酒場』を発行されている月永理絵氏)なのであろう。一歩間違えば趣味的な自閉に陥ってしまうかもしれない危うい地点での新たな試みに期待が高まるところだ。

続くパネリストの渡邉大輔氏は、ご自身が批評家としてくぐり抜けてきた「ゼロ年代」の批評を振り返りつつ、批評とは何かを考察する。「物語」よりも「構造」が前景化し、たとえば『レザボア・ドッグス』(92)などにその典型が見出される「キャメロンの時代」(安井豊)、東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物の時代」を引き合いに出しつつ、ひとつには「ネタ化」に自覚的に適応することを特徴とするゼロ年代の批評のあり方を抉り出す内容だったと理解している。

氏が柄谷行人を引いて言うように、みずからの存立基盤そのものを問い直すことが「批判」ならぬ「批評」であるならば、デジタル以降の映像の根本的なアーキテクチャにも氏の関心が向かうのは当然のことだろう。具体的な事例として、実際の都市空間とのフィードバックが作品そのものに組み込まれている瀬田なつきの『5windows』や、濱口竜介の『親密さ』の上映形態が俎上に載せられたことにも、一貫しているという印象を受けた(後者のオールナイト上映の事例はいささか強引であるような気もするが)。

3番目のパネリストの三浦哲哉氏は、最近、岩波文庫で新訳が出たアンドレ・バザンの今日的な可能性を探るべく、彼の長大な論考「演劇と映画」の勘所を読み解く。なかでも、映画の出現以前、ある種の演劇は「幼形成熟」していたにすぎず、たとえば古典的な笑劇がバーレスク映画へと形を変えて復活を遂げたように、演劇は映画という新しいメディウムの登場によって別様の進化の可能性を持ったのだというバザンの着想を受けて、「映画」もまた「幼形成熟」しているのかもしれないのであり、仮に「ポストシネマ」と名付けうるものの潜在的な状態にとどまっているのかもしれないと述べる三浦氏の見立てはたいへん魅力的なものにうつった。

また、わたしが討議でも指摘したように、バザンが「映画」という場を演劇、小説、絵画といった他芸術を(それらの諸芸術の形式もろとも)内包するものとみなしたことは、レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド・メディア」という概念と通底していると考えられるし、いずれにせよバザンの「不純な芸術」としての映画という着想がもっている可能性はまだ汲み尽くされていないような気がする。

最後の登壇者であるわたしのプレゼンテーションでは、「映画と他の諸メディウム――テレビ、ヴィデオ、コンピュータ」と題して、映画と他のメディウムとの交渉の歴史を振り返ることで、とりわけレイモン・ベルールを導きの糸としながら、自律した芸術としての映画の観念を相対化することを試みた。まず、「テレビ」に関しては、ダドリー・アンドリューが昨年に編纂した『Andre Bazin's New Media』(バザンのテレビ論、ワイドスクリーン論、3D映画論などの英訳による集成)に触発されつつ、バザン、『カイエ・デュ・シネマ』誌、ヌーヴェル・ヴァーグへの「テレビの美学」の影響をスケッチした。初期ヌーヴェル・ヴァーグへのテレビの影響はことのほか大きく、この議論はさらに発展させてみたいと思っている。

続いて、「ヴィデオ」に関しては、ゴダールの1970年代以降の実践を振り返りつつ、それが60年代ゴダールの「テレビの美学」からの影響と地続きであることを指摘し、ゴダールの他のメディウムとの本格的な格闘は「ヴィデオ」の終焉(具体的には『映画史』)でもって終わったのではないかという問題提起をした。

それ以後、映画と競合する(広義における)「メディウム」は、「コンピュータ」と「美術館」である。マノヴィッチのいうように、過去のあらゆるメディウムは「メタ・メディウム」としてのコンピュータ上のデータに一元化されるという面があるにしても、そうであるがゆえに、かえって、そのデータをどのように出力するかという装置(インターフェース)が無限に多様化するというパラドクシカルな状況があるのではないか。そして、また別の水準において、私たちは現在、「美術館」をはじめとする多種多様な映像の形態に「映画」がかつてなく脅かされているようでいながら、むしろメディウムとしての「映画」の強固さが再認識させられるような状況にいるのではないか。おおむね以上のようなことを指摘した(参考までに、このブログの末尾に発表の際に使ったパワーポイントのスライドを掲げておく)。

その後、休憩を挟んで、青山真治監督藤井仁子からのコメントがあった。その内容を再現するのは難しいが、青山監督のコメントでは、トニー・スコットの投身自殺のニュースを聞いたときにご自身にとっての「映画は終わった」(「死んだ」ではない)と強く感じ、現在は東京と京都を毎週何度も往復しながら教育にも多大なエネルギーを注いでいること、ここ数年間の演劇の演出の仕事を経て、WOWOWの全4話のドラマ『贖罪の奏鳴曲』でかつて映画だったものをやり直すという体験をしたこと、『ユリイカ』(2001)がフランスの批評家フィリップ・アズーリによって当時すでに「ポストシネマ」と形容されたことなどが印象的だった。

藤井氏のコメントは多岐にわたる充実したものだったが、まず、デジタル以降の出来事は映画にとって本当に新しいのか、量的な差異を質的な差異と見誤っていまいかという根本的な問題提起がなされた。その他の指摘のうち、映画のアイデンティティが揺らいでいると言っても、それは今に始まったことではなく、もともと映画は猥雑なものであって(商業でも芸術でもあるという点に明瞭に現れ出ているように)、メディウム・スペシフィシティを追求するようなモダニズム的言説とは相容れないという指摘や、画面の細部に偏執狂的な視線を注ぐシネフィリア的な映画の見方は、一方では映画の本性をインデックス性に見て取ることに、他方では作家性の顕揚に向かうという指摘にはとりわけ強い印象を受けた(なお、シネフィリアに関しては、そのテーマを主題的に論じている数冊の本のほか、藤井氏も言及していたポール・ウィレメンの『Looks and Frictions: Essays in Cultural Studies and Film Theory (Perspectives S.)』所収の論考が大変参考になる)。

以下、わたしの発表のパワーポイントのスライド画像を掲載しておく(クリックで巨大化します)。