les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ゴダール新作『イメージの本(Le Livre d'image)』予告篇についての覚書

 2018年のカンヌ映画祭に出品されるジャン=リュック・ゴダールの新作『イメージの本(Le Livre d'image)』の予告篇は、それ自体、実験映画のようだ。左右のビープ音と『軽蔑』ラスト付近の音声の引用で始まり、ハンス・オッテの楽曲がサウンドトラックを支配するこの1分14秒の予告篇の映像は、音声面での不穏さと相まって、異様な密度の濃さで観客に襲いかかる(追記:以下のYouTubeに転載された動画は解像度が低いので、Vimeoのオリジナル版をご覧になることをお勧めします)。


 この予告篇は、どうやら複数の映像のレイヤーで構成されているようだ。そのレイヤーの重なり具合を明確に言い表すのはむずかしいが、手がかりになるのは2種類の文字情報のレイヤーだろう。

 まずはっきりしているのは、「TABLEAUX」「FILMS」「TEXTES」「MUSIQUE」と続く、大きなフォントサイズで書かれた4つの単語の「後景」に、おそらく絵画、映画、文章、音楽の引用元のクレジットと思われる小さなフォントサイズの文字のリストが展開していくこと。この2つのレイヤーの前後関係は明瞭だ。



 黒地に白で書かれた大きな文字を透かして、高速度で展開しているらしき映像が見え隠れするが、単に文字の「背後」に映像のレイヤーがあるだけでなく、その「手前」にも時おり映像が横切っているようだ。



 垣間見える映像はほとんど判別できないが、たとえばこの箇所など、「TEXTES」という文字を透かして、かなりはっきりと情景が見て取れる(砂漠地帯でムスリムたちが祈りを捧げているように見える)。

 しかし、大きな文字を透かして見える映像と、文字そのものに覆い被さる手前の映像の関係は、正直言ってよくわからない。両者の映像は同じときもあれば、異なるときもあるように見えるし、レイヤーの前後関係も不明瞭だ。



 あるいは、この箇所では、シルエットではっきりと、馬に乗った二人の人物が去って行く姿が見て取れる。ただし、ここは先ほどとは違ったロジックで、複数のレイヤーの重ね合わせが行われているようだ。

 いずれにせよ、見えそうで見えず、何かただならぬことが起こっている気配だけは濃密に漂ってくる。

 さて、以下では、本篇を読み解くためのヒントが詰まっていると思われる小さな文字のリストに絞って、いくつか雑感を述べることにする。とはいえ、現時点(5/7現在)では当然、本篇は未見なので(カンヌ映画祭では5/11に上映予定)、以下の記述は予告篇を見てわたしが妄想したことにすぎないことをお断りしておく。

 まず、このリストは全部で11枚あり、挙げられている項目は264におよぶ。84分の上映時間(ここからダウンロードできるプレスキットに基づく)に仮にこれだけの引用が詰まっているとなると、その密度は相当なものだろう。『ゴダール・ソシアリスム』(2010)の第3楽章、あるいは『アワー・ミュージック』(2004)の冒頭部分のようなコラージュが全篇にわたって続くのだろうか。前作『さらば、愛の言葉よ』(2015)のような「物語映画」から、『映画史』(1988-98)の手法への回帰がなされているのだろうか。

 264項目のうち、約150は映画のタイトル(うち、ジガ・ヴェルトフ集団も含めたゴダール自身の作品が20本)、90ほどが文学者、映画人、画家、音楽家等の名前で、残りは現時点ではなんとも言えないものである(HISTOIREとか、GOOGLEとか、MARILYNとか、CONSTANTINOPLEとか)。

 人名等のうち、画家はあまり多くない(ダ・ヴィンチジャコメッティアンドレ・ドラン、ドラクロワクリムト、マサッチオ、カイユボット、フォンテーヌブロー派、アウグスト・マッケの9項目)。


 

 この9項目のうち、レオナルド・ダ・ヴィンチの何が引用されているのかは、予告篇でも明かされている。末尾付近に出てくるこの天を指し示す指は、彼の《洗礼者ヨハネ》St. John the Baptist (1513-16)からとられたものと考えて間違いないだろう。


 

 また、青騎士の画家アウグスト・マッケのどの作品が使われているかも、すでに判明している。予告篇には出てこないが、製作会社CASA AZUL FILMのホームページにみられるこのイメージは、彼の水彩画《明るい家》Das Helle Haus (1914)をかなり色調変化させて用いたものだ。実はこれはパウル・クレーらとともに赴いたチュニジア旅行の成果のひとつで、おそらくその出来事を取り上げたスイスの映画作家ブルーノ・モルのドキュメンタリー『チュニジア旅行』(2007)と関連していると思われる。

 音楽関係のクレジットは、約20項目ほど。あがっているのは、バッハ、ベートーヴェンメンデルスゾーンプロコフィエフシュニトケといったクラシックの正統的な作曲家から、モーリス・ルルーやポール・ミスラキといった映画音楽の作曲家、アルヴォ・ペルト、ギヤ・カンチェリ、トーマス・スタンコ、そして予告篇にも使われているハンス・オッテといったゴダール好みの現代曲、さらにはアヌアル・ブラヒムやトルド・グスタフセンといったジャズの作曲家まで。これらの多くは、ここ30年くらいのゴダール作品がどれもそうであるように、ECMレコード(これもリストに入っている)の徴の下に置かれている。

 文学者を中心とする他の人名の多くは、シェイクスピアドストエフスキー、フォークナー、ソレルス等々、いわば「ゴダールの図書館」でおなじみの名前が多い。とはいえ、目を引く名前もいくつもある。たとえば、ストローブ=ユイレがこだわっているイタリアの作家エリオ・ヴィットリーニの名前もみられる。



 だが、アラブ世界についての考察を含むとも噂される本作との関連でより興味深いのは、ヨーロッパとその他者の関係性について思考し続けたエドワード・サイードの名前が挙がっていることかもしれない(サイードの名前の次には、彼の対話本の仏訳版に「アラブ人は語ることができるか」という序文を寄せているアルジェリア系の哲学者セルア・リュスト・ブルビナの名前もみえる)。

 また、ゴダールがよく名前を挙げるアメリカの作家フレデリック・プロコシュ(彼の1950年代の小説『幸福なるアラビアの偶然』(仏語題)にゴダールはたびたび言及する)や、エジプト生まれのフランス語の作家アルベール・コスリー(日本語では『老教授ゴハルの犯罪』だけ水声社から翻訳されているが、ゴダールが参照しているのはたぶんこの小説ではないと思う)のテクストがどのように使われているのか、興味は尽きない。

 さて、リストで最も興味深いのは、もちろん、264項目の過半数を占める映画タイトルだろう。ここでも、いわば「ゴダールシネマテーク」でおなじみのタイトルは数多い。しかし、ゴダールの『映画史』が自分より後に生まれた作家をほとんど無視していたのとは違って、『イメージの本』は、予告篇のリストを一瞥するだけでも、積極的に新しい作品群を取り込もうとしているようにみえる。

 ここでは二点だけ指摘するにとどめよう。まず、予告篇それ自体が実験映画的であることからも予感されるように、実験的・前衛的な傾向をもつ映画への言及が目を引く。これまでにも、ホリス・フランプトン、『我ら』NOUS(アルタヴァスト・ペレシャン)、『コミューン』LA COMMUNE(ピーター・ワトキンス)、『地中海』MÉDITERRANÉE(ジャン=ダニエル・ポレ)などはゴダールの作品世界にとって未知ではなかった(最後の『地中海』はフェルナン・ブローデルの本を指している可能性もあるが)。

 カナダ在住のマルチメディア・アーティストのアル・ラズティスAL RAZUTISの名前も言及されている。彼の初期映画をめぐる実験的作品『Visual Essays: Origins of Film』(1973-84)の抜粋を見るだけでも、いかにもゴダールが興味を持ちそうな感じがする。未確認だが、彼の作品はもしかしたらゴダールの『真の偽造パスポート』Vrai faux passeport (2006)でも使われていたかもしれない。

 しかし、おそらくゴダールが初めて用いる実験映画作品も少なくないはずだ。その中には、『中央地帯』LA RÉGION CENTRALE(マイケル・スノウ)や『午後の網目』MESHES OF AFTERNOON(マヤ・デレン)といった「古典」も含まれているが、それ以上に興味を惹かれるのは、「TERRORISM CONSIDERED」という項目で示されるイギリスの鬼才ピーター・ホワイトヘッドの長篇『Terrorism Considered as One of the Fine Arts』(2009)や、レイ&チャールズ・イームズの短篇『TOCCATA FOR TOY TRAINS』(1957)や、ずっと若い世代のジャック・ペルコントの短篇『APRÈS LE FEU』(2000)が入っていることだ(いずれもリンク先のYouTube等で見ることができる)。

 また、リストの1枚目に出てくる「CAMÉRA ANALYTIQUE」は、イェルヴァン・ジャニキアン&アンジェラ・リッチ・ルッキのDVD付き書籍(Yervant Gianikian et Angela Ricci Lucchi, Notre caméra analytique, Post-éditions, 2015)を指しているように思えてならない(DVDには、2015年のYIDFFでも上映された『東洋のイメージ』も収められている)。というのも、ゴダール2016年のインタビューで準備中の新作について語る際に、「ファウンド・フッテージ」に基づく考古学的作業を行っている彼らの作品に強い関心を示しているからだ(ゴダールはどうしても「例の二人のイタリア人映画作家」の名前を思い出せないのだが。ちなみに、同じく「ファウンド・フッテージ」に基づく作品を手がけているグスタフ・ドイチュは知らないという。また、このインタビューは全体的に聞き手の水準が高くめっぽう面白い)。



 こうした新たな領域の開拓には、製作のジャン=ポール・バッタージャ、撮影のファブリス・アラーニョとともにクレジットされている研究者兼プログラマーのニコル・ブルネーズの助力があったに違いないが(日本語では『映画の前衛とは何か』須藤健太郎訳、2012年、現代思潮新社を読むことができる)、それがどのような体験だったのかは、きっといずれ彼女自身の口から語られることだろう。

 もうひとつ指摘したいのは、映画の主題が「アラブ」であることと関わって、かなり多くのマグレブや中東の映画が参照されているらしいことだ。おそらく、そのうちゴダールにとって最も馴染み深かったのは、エジプトのユーセフ・シャヒーンの一連の作品だろう(かつてゴダールはシャヒーンの短篇『カイロ』を自作『JLG/自画像』の併映作として選び、一緒に記者会見に臨んだことがある)。リストでも、遺作となった『LE CHAOS』(2007)のほかに『GARE CENTRALE』(1958)が挙げられ、もしかしたら「BONAPARTE」や「DJAMILA」も彼の『アデュー・ボナパルト』(1985)や『ジャミラ・ブーパシャ』(1958)を指しているのかもしれない。

 だが、リストにはシャヒーンにとどまらず、チュニジアの作家・映画作家ナセル・ケミール(先に言及した『チュニジア旅行』にも出演している)の砂漠三部作のうちの2本(『COLLIER PERDU DE LA COLOMBE』(1991、ただしリスト上では「COLLINE」と誤記されている)、『BAB'AZIZ'』(2005)の2本)や、同じくチュニジアのパイオニア的な女性監督Moufida Tlatliのいくつかの作品(『LA SAISON DES HOMMES』(2000)と『LES SILENCES DU PALAIS』(1994))も挙げられている。これらの作品は、スイスではヴァルター・ルグレ率いるTRIGON FILMSが配給やDVD販売を手がけているようで、そのレーベルそのものも6枚目のリストに挙がっている(ただし、「TRIGNON FILMS」となっているので、別の組織を指しているのかもしれない 【追記】ご指摘を受け、よく目を凝らして見たら「TRIGON FILMS」と正しく記載されていました)。



 こうしたいわば「オーセンティック」なマグレブの映画と並んで、この11枚目のクレジットに見て取れるように、ジュリアン・デュヴィヴィエの『地の果てを行く』LA BANDERA (1935)はまだわかるとして、スティーヴン・ギャガンの『シリアナ』SYRIANA (2005)や、『バグダッドの盗賊』VOLEUR DE BAGDAD(ここではクライヴ・ドナー版、9枚目にはラオール・ウォルシュ版も)や、マイケル・ベイの『13時間 ベンガジの秘密の兵士』13 HOURS (2012)といった、ハリウッドによってでっち上げられた中東のイメージが渾然一体と取り上げられるあたりも、いかにもゴダールらしいところだろう。

 ついでに言えば、この11枚目に挙がっているアスガー・ファルハディの『彼女が消えた浜辺』ABOUT ELLY (2009)や、オサマ・モハンメド、ウィアーム・シマブ・ベデルカーンの『シリア・モナムール』EAU ARGENTÉE (2014)、アブデラマン・シサコの『禁じられた歌声』TIMBUKTU (2014)といった日本でも公開・上映された話題作もいくつかリストには入っている。

 こうして、リストを見るだけでもまだ見ぬ作品をつい果てしなく夢想してしまうが、個人的にちょっと驚いたことが二つある。

 ひとつは、スピルバーグの『ジョーズ』LES DENTS DE LA MER (1975)がリストに入っていること。ゴダールはことあるごとにスピルバーグを(羨望まじりに?)揶揄する発言を繰り返しているが、わたしの思い違いでなければ、彼の作品を引用することはなかったのではないか。とはいえ、ゴダールは『ピラニア3D』(2015)を平気で引用する人でもあるから、驚くことはないのかもしれない。

 もうひとつは、わたしが偏愛するテオ・アンゲロプロスの『霧の中の風景』(1988)が挙がっていること。「PAYSAGE DANS BROUILLARD」という表記で、冠詞が抜けているが、この作品以外には考えられまい。個人的にはこれがどういう文脈で入れられているのか、ぜひ見届けたいところだ。