les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ジョルジョ・アガンベンのゴダール論

 岡田温司氏の『アガンベンの身振り』(月曜社、2018年)によれば、ジョルジョ・アガンベンの映画論は6本の短いエッセイに限られる。そのうち、未邦訳にとどまっていたゴダール論をここに訳出する。

 このゴダール論は、もともとはベルナール・エイゼンシッツの企画により、1995年8月6日、11日、12日にロカルノ映画祭の最中に開催された『(複数の)映画史』Histoire(s) du cinémaをめぐる大規模なシンポジウムで読まれたものである。1988年に最初の2章(1A、1B)が完成した『(複数の)映画史』は、この時点では3Bまで出来上がっていた(本作の概要については、この解説を参照してほしい)。とはいえ、登壇者たちの全員が最新のエピソードまで見ているというわけではなく、内容から判断して、アガンベンもおそらく最初の2章しか見ていないと思われる。

 このシンポジウムの一端は、同年10月6日付けの『ル・モンド』紙で紹介された。主に書評を扱った別冊のX-XIページ見開き全体を使って、リード文に続き(リンク先では、この部分のみ全体が無料で読める)、左ページにはフロランス・ドゥレマリ=ジョゼ・モンザンジャン・ナルボニ、右ページにはジャック・ランシエールジョルジョ・アガンベンの発表が採録され、両ページのいくつかの箇所にちりばめられる形で、ゴダールの発言も紹介されている。

 ただし、以下に訳出するのは、『ル・モンド』に載った採録ではなく、3日間にわたるシンポジウム全体を細大漏らさず採録した私家版のタイプ原稿(A4判109頁)のうち、アガンベンの発表に該当する部分(74-76頁)である。『ル・モンド』掲載のものと全体の主旨に変更はないが、こちらの方が補足説明等を多く含み、およそ2倍の分量がある。以下では、『ル・モンド』版に使われている部分を太字にしている(ただし、多少表現は変わっているので、厳密に対応しているわけではない)。なお、採録には多少のミスや、文意不明瞭な箇所があるが、アガンベンの手が入っていると思われる『ル・モンド』版を参考に、適宜、意を汲んで修正していることをお断りしておく。

 シンポジウムの登壇者たちを記しておこう。3日間ともジャン=ミシェル・フロドンがモデレーターを務め、ベルナール・エイゼンシッツが通訳として同席している。1日目(8月6日)の登壇者は、フロランス・ドゥレ、アンドレ・S・ラバルト蓮實重彦、ジョナサン・ローゼンバウム。名前の判明しているフロアからの発言者には、ノエル・シムソロもいる。

 2日目(8月11日)の登壇者は、ゴダール、ルート・ベッカーマン、マリ=ジョゼ・モンザン、ナウム・クレイマン、ジャック・ランシエール。こんな豪華なメンバーが同じ場に居合わせたのは、もちろん、これが最初で最後だろう。

 3日目(8月12日)に登壇したのは、アガンベンのほか、アドリアーノ・アプラ、アデミール・ケノヴィッチ、ダニエル・リンデンベルク、ジャン・ナルボニ。フロアからの発言者のなかには、モンザン、ルイ・スガン、ランシエール、ドミニク・パイーニ、シムソロ、レーモン・ベルール、蓮實重彦、ドゥレ、セルジュ・トゥビアナらの名前が確認できる。

ゴダールの『(複数の)映画史』をめぐるラウンドテーブルにおけるジョルジョ・アガンベンの発言(1995年)

堀潤之訳

 ゴダールの仕事の主要なテーゼのひとつと思われることから話を始めたいと思います。それは、歴史と映画の間にある本質的で、構成的なと言ってもいい繋がりというテーゼです。その繋がりは偶然的なものではなく、本質的なもので、これは真面目に取らなければならないテーゼでしょう。[直前の発表者であるアドリアーノ・]アプラがドゥボールの名前を引いたのを嬉しく思います。というのも、ドゥボールは、映画が根本的に歴史的な性格を持っているという同じ直観に突き動かされて映画を撮っていて、彼の映画にはゴダールが『(複数の)映画史』で行った仕事と多くの接点があるからです。驚くべきことに、時には同じ抜粋が引用されてさえいます。特に挙げるとすれば、たとえば『大砂塵』がそうです。
 さて、私が提起したかった問いは、この繋がりがどこから来るのか、映画はどのような歴史的責務を持っているのかというものでした。何よりもまず、どのような歴史が関わっているのでしょうか。というのも、きわめて特殊な歴史、メシア的な歴史が関わっているからです。ところで、メシア的な歴史はきわめて特別な歴史で、年代順の歴史ではなく、まずは救済と関係のある歴史、救済の歴史です。つまり、何かを救済しなければならず、何か救済すべきことがあるのです。次いで、それは終末の歴史[une histoire terminale]です。それは、歴史の各瞬間が終止符であるような、そこを通ってメシアが入ってくる小さな門であるような歴史なのです[ベンヤミン「歴史の概念について」参照]。
 そういうわけで、ゴダールがしているのは、まず歴史を、映画と歴史を、そのメシア的な次元に置くことであるように私には思えます。彼はそのことをかなりはっきり語っているとさえ思います。『映画史』の最初の一翼[1B]には、ごく単純にグノーシス神学であるような文章さえあります。ゴダールは「イメージは〈復活〉の時にやって来るだろう」と言います。すなわち、キリスト教的、ユダヤ教的、あるいはマニ教的なグノーシスの古典的なテーゼです。なぜなら、それらのグノーシスはいずれも、イメージを〈復活〉の要素そのものとして構想しており、再び姿を現すものは、エイドス、つまりイメージだからです。人はイメージを介して救済されることになるし、みずからのイメージを見ることは救済されることを意味します。したがって、ここでゴダールが引いているのは、ごく単純にメシア的神学なのです。ゴダールはつまり、イメージをその歴史的な、すなわちメシア的な身分へともたらしています。ですから、この『(複数の)映画史』を定義づけなければならないとしたら、それは映画のアポカリプスであると言いたい。これが映画を千年間、支配しているものなのです[『ヨハネの黙示録』20章参照]。それとは別に、ロールのゴダールがパトモス島にいる聖ヨハネのようだと言いたいわけではありませんが、いくつかの論点をはっきりと主張しておきます。第一の論点は、いわば、陰鬱なもの、破局的なもの[catastrophique]という意味でのアポカリプス的な側面ということです。ご存じのように、ユダヤ的伝統では、メシアが到来する日は、人が最も望んでいるものであると同時に、人が最も怖れているものでもあります。聖なるラビの逸話では、彼は毎日、メシアの到来を待ち構えつつ、同時にこう言って祈ります。「神よ、私がその日を見ないようにしてください。なぜなら、それはこの上なくおぞましい破局の日なのですから。メシアが到来する時間ほど、その日ほど不吉な時はありません」、と。次いで、『(複数の)映画史』はこの言葉のもう一つの、より字義的な意味、つまり啓示[révélation]という意味でも映画のアポカリプスなのです。アポカリプスは、啓示を意味します。『(複数の)映画史』は、映画の啓示、映画による映画の暴露[dévoilement]のようなものです。
 では、この点を解明していくことにしましょう。ゴダールが映画のアポカリプスを行っていると言うとき、私は何を言おうとしているのでしょうか。イメージはどのようにこのメシア的な力を獲得するのでしょうか。セルジュ・ダネーは、モンタージュによって、と言いました。彼によれば、『(複数の)映画史』におけるゴダールのテーゼは、映画が探し求めていたのはモンタージュという一つの事柄だけであり、この事柄を20世紀の人間はひどく必要としていた、というものです。よいでしょう。しかし、こうした展望において、モンタージュとは何でしょうか。いやむしろ、モンタージュの可能性の条件とは何でしょうか。哲学では、カント以来、可能性の条件のことを超越論と呼んでいます。私はここで、映画の超越論とは何か、という問いを提起したいのです。モンタージュの可能性の条件とは何か。この条件は、少なくとも二つあります。第一に反復であり、第二に停止です。『(複数の)映画史』では、ゴダールは映画の超越論、映画の可能性の条件に光を当てているように思います。私たちは映画史のある段階にまで達しています。その点で、アプラと同じく、私もある種の大いなる新しさがあると思います。それは映画がその超越論、その可能性の条件を示し、顕示しているということなのです。
 反復とは何でしょうか。ご承知のように、近代には偉大な反復の思想家が少なくとも四人いました。キルケゴールはもちろん、ニーチェハイデガージル・ドゥルーズです。彼らは皆、反復において問題なのは同一のもの[l’identique]ではないことを示しました。反復において再来するものは、同一のものではありません。反復とは、かつてあったものの可能性の回帰です。それこそが、反復の大いなる新しさです。再来するものは、可能的なものとして再来するのです。復元は、過去にその可能性――失われてしまったと思われるもの、過去が失ったと人々が考えているもの――を取り戻させます。違うのです。反復はまさに、過去が可能的なものとして再来するということを私たちに示すためにあるのです。反復と記憶[la mémoire]が近しいのはそのためです。というのも、思い出[un souvenir]とは、かつてあったものが可能的なものとして回帰することでないとしたらいったい何でしょうか。そういうわけで、反復の最初の定義を与えることができるでしょう。反復とは何かと言えば、それはかつてなかったものの思い出なのです。ですが、私が思うに――皆さんに同意していただけるかどうか分かりませんが――、これは映画の定義そのものでもあります。というのも、映画とは、かつてなかったものの思い出でないとしたらいったい何でしょうか――この語のあらゆる意味において、私たちがある映画を見るときに受ける印象においてさえ。さらに、メディアが行っているのはそれとは反対のことで、同じ手段を使いながら、つねに事実をそれが持つ可能性ぬきで与えます。メディアが与えるのは、反復することができない事実、それに対して人が無力であるような事実です。メディアの圧政が好むのは、憤慨しているけれども無力な市民たちです。メディアの圧政はこのように彼らを好み、映画の逆を行っているのです。ゴダールはここで何をしているのか。彼は私たちに対して、かつてあったものを再び可能的なものにしています。反復はこうして構成上の規範になることができるのです。
 第二の要素は、停止、ヴァルター・ベンヤミンが語った「革命による中断」、何かを中断する力能です。これは非常に重要なことです。『(複数の)映画史』の構成方法に明らかなように、停止と反復は仲裁し、体系をなしています。停止が重要なのは、それがまさに、映画とたとえば語り[narration]を区別するものだからです――語りは、散文で書かれた文学一般のモデルの一つでした。ご承知のように、文学の理論家たちは、散文と詩の間の明確な弁別要素をたった一つしか見出しませんでした。彼らが見出したのは、詩では中間休止[césure]や句跨り[enjambement]を行うことができるということです。つまり、音声上の境界と意味論的な境界を対立させることができます。中間休止や句跨りとは、意味論的な境界と音声上の境界を対立させ、休止を作り出し、停止させ、徴、差異を作り出す可能性のことです。したがって、詩には停止の能力があり、散文にはありません。
 さて、映画もそのような停止の力を持っていること、反復と停止は映画において体系をなしており、両者は切り離せないことを示しましょう。二つが相まって、映画のメシア的な使命[tâche]を果たしているのです。この使命、『(複数の)映画史』からも現れ出ているように思えるこの使命とは何でしょうか。それは、反復や停止が私たちに何かをもたらすということではありません。新たな創造や、ごく単純に新たなイヴ――第一の創造に基づく第二の創造――ではなく、「脱創造[décréation]」の行為なのです。それこそがむしろ、反復と停止の力です。それらはかつてあったものを脱創造し、その脱創造によってしか、反復は可能ではありません。ドゥルーズはかつて、どんな創造行為も抵抗の行為であると言っていますが、ある行為が抵抗たりうるのは、それが諸々の事実を「脱創造」する力を持っているからです。というのも、かつてあったものを脱創造できる力と能力をまず持っていなければ、私たちは何に対しても抵抗できず、事実がつねにより強力なのです。
 もう一つ、私には重要に思えることがあります。あるイメージがこうして反復と停止によって加工されると、何が変えられるのかということです。それはいわば「無のイメージ」なのです。見たところ、ゴダールが私たちに示すイメージの数々は、他の映画から抜粋された、イメージのイメージですが、まさにそのことによって、それ自体をイメージとして示す能力を獲得しています。それらのイメージはもはや、私たちがただちにその意味作用――物語的なものであろうと、そうでなかろうと――をたどらなければならない何かのイメージではなく、それ自体としておのれを顕示するイメージにして手段なのです。ここで次のように結論づけることができるでしょう。私が冒頭で語った真のメシア的な力とは、イメージを、あの「イメージなき状態[sans image]」――ベンヤミンが言ったように、あらゆるイメージの避難所であるところの――にする、このような力のことなのです。

 なお、アガンベンの映画論のうち、以下の4篇は邦訳で読むことができる。

 迂闊にも訳出を終えてから気づいたのだが、本テクストは、「ギー・ドゥボールの映画」とかなり重複している(冷静に考えれば、だからこそ『ニンファ その他のイメージ論』に収められていないのだろう)。「ギー・ドゥボールの映画」は、上記のテクストをいわば青写真として、それを膨らませたものなのであり、論の展開はほぼ同じであると考えてよい。

 ということは、アガンベンドゥボールの試み全体とゴダールの『(複数の)映画史』というプロジェクトをほぼ同一視しているということになる。実際、「ギー・ドゥボールの映画」には、「二人は長年にわたって敵対関係にあったが[……]、にもかかわらずゴダールは、ドゥボールがはじめてたどってみせたのと同じパラダイムをあらためて見いだした」とある(邦訳66頁)。アガンベンの立論の基底にあるこうした見立てそのものの妥当性については、さらなる吟味の必要があるだろう。