les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

D・W・グリフィス『イントレランス』余話

 D. W. グリフィスの最大の野心作『イントレランス』Intolerance (1916)を構成する4つのエピソードのうち、最もまとまった物語を展開している「現代篇」は、数年後にグリフィス自身によって再編集されて、『母親と法律』The Mother and the Law (1919)という独立した長篇映画として公開されている(YouTubeでも見ることができる)。

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 この映画はおそらくグリフィス作品のなかでも相対的にマイナーで、元々本作の企画が発端にあったにもかかわらず、『イントレランス』の影に隠れて顧みられない傾向にある。しかし『母親と法律』は、『イントレランス』から「現代篇」を単に抜き出しただけの作品ではなく、新たに撮影されたシーンをそれなりに多く含むなど、独立した長篇としても見応えがある。率直に言って、もっと見られてもよい作品だと思う。

 基本的なストーリーは同じで、主人公は労働者階級の〈愛らしい娘〉The Dear One(メイ・マーシュ)と〈青年〉The Boy(ロバート・ハーロン)である。工場のストライキ弾圧に巻き込まれて、都市に移住せざるをえなくなった二人は、そこで初めて出会う。〈スラム街のごろつき〉The Musketeer of the Slums(ウォルター・ロング)の手下としてケチな悪事を働いている〈青年〉は、〈愛らしい娘〉との結婚を決めるとそこから足を洗おうとするが、逆上した〈ごろつき〉にはめられて刑務所行きとなる。〈愛らしい娘〉には子供が生まれるが、偽善的な社会改革運動家たち(Uplifters)によって子供を取り上げられてしまう。やがて〈ごろつき〉は〈愛らしい娘〉に言い寄るようになり、それに嫉妬した情婦〈友人なき女〉The Friendless One(ミリアム・クーパー)は〈ごろつき〉を射殺するに至り、その罪が出所したばかりの〈青年〉に着せられる。絞首刑の準備が着々と進んでいくときに〈友人なき女〉が自白し、〈青年〉がすんでのところで死を免れるラストミニッツ・レスキューが終盤のクライマックスとなる。こうして梗概を記してみると、なんとも荒唐無稽なストーリーである。

 このストーリーが、『イントレランス』では他のエピソードと忙しなく組み合わされて展開するのに対して、『母親と法律』では単線的に、より詳しく語られるので、同作を合わせ鏡とすることで、『イントレランス』の(いささか省略的な)「現代篇」の物語を十全に理解することも可能になるだろう。

 先日(2021年12月25日)、神戸映画資料館で『イントレランス』についてのレクチャーをした際には触れる余裕がなかったが、以下、『母親と法律』で追加されたシーンを列挙しつつ、その見どころを紹介してみたい。

  • 「現代篇」にも〈青年〉が家に入りたがるのを〈愛らしい娘〉が全力で押し返し、一度は怒って帰りかけてしまう〈青年〉が戻ってきてプロポーズする(そして扉が細く開いて、二人がキスを交わす)場面があるが、『母親と法律』ではそれに先立って、デートの後に家に入ろうとする〈青年〉を〈愛らしい娘〉が棒で思い切り叩いて追い返すややコミカルなシーンがある(上は『イントレランス』現代篇の扉ごしのショット゠切り返しショット。下は『母親と法律』にしかないシーン)。出会いからプロポーズにまで至る過程が、このように『母親と法律』では多少とも丁寧に描かれている。

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  • プロポーズの後、「現代篇」では〈青年〉が真人間になろうとして〈スラム街のごろつき〉にピストルを返却するも、逆にはめられてあっという間に刑務所行きとなるが、『母親と法律』にはその前に材木置き場でデートをする微笑ましいシーンが挟まれている。このロケーションが労働者階級の界隈の雰囲気を少ない道具立てで醸し出していて良い。ここでは、〈愛らしい娘〉のコケティッシュな歩き方を、まさにその歩き方に魅了された当の〈青年〉が止めさせるという興味深いくだりもある。

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  • 〈青年〉が刑務所に入っている間に〈愛らしい娘〉は母親となるが、『母親と法律』では子供が産まれるまでの間に二度ほど、彼女が刑務所に面会に行くシーンがある。二度目の面会では、柵を挟んで、珍しくショット゠切り返しショットで二人のやり取りがなされる。

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  • 『母親と法律』には、〈青年〉が刑務所での土木作業に従事する姿も何度か描かれる。オスカー・ワイルドの⦅レディング牢獄の唄⦆の一節が字幕で提示され、〈青年〉への死刑宣告を暗示するかのように、深々と掘られた墓穴が映し出される不気味なシーンもある(右)。

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  • 〈愛らしい娘〉は、母親不適格として、生まれたばかりの子供を取り上げられてしまう。『母親と法律』では、偽善的な社会改革運動家たちと対比するかたちで、「愛」に基づくまっとうな救貧組織として救世軍が出てくる。子供を保護することを是認する裁判所のシーンも加えられている。社会改革運動家に対するグリフィスの根深い疑念は、掘り下げて検討すべき論点であろう。

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  • イントレランス』の「現代篇」との違いで何より驚かされるのは、『母親と法律』では取り上げられた子供が施設で死んでしまうこと(もちろん、収容以前に〈愛らしい娘〉が育児放棄していたせいだとされる)。ちっぽけな棺に入れられた赤ん坊の亡骸を見せられて涙にくれる〈愛らしい娘〉の姿には、見る者の胸を抉るものがある。この展開に応じて、『イントレランス』の末尾で〈愛らしい娘〉の手に子供が戻ってくるというシーンも当然『母親と法律』にはない。〈青年〉が死刑を間一髪で免れて一応ハッピーエンドで終わるものの、死んだ子供のことを思うと素直に喜べない。

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  • 〈友人なき女〉をめぐる描写も、「現代篇」と『母親と法律』とで大きな差異がある。まず、ストライキ弾圧の結果〈青年〉が街を去っていくときに、(おそらく父親を亡くして)天涯孤独になってしまったらしい〈友人なき女〉と握手を交わすシーン。シーンそのものは両方にあるものの、『母親と法律』では〈友人なき女〉が「彼の最初の恋人」であると明記されている。

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  • 〈友人なき女〉はその後〈スラム街のごろつき〉の情婦となる。やがて〈ごろつき〉が〈愛らしい娘〉に心変わりすると、先述のように嫉妬に狂った〈友人なき女〉が〈ごろつき〉を射殺することになる。「現代篇」では〈ごろつき〉の心変わりからあれよあれよという間に射殺に至るので、いささか唐突な展開のように思えるが、『母親と法律』では家でたまたまピストルを発見し、向こうを向いている〈ごろつき〉に遠くから戯れに銃を向けているうちにどうやら嫉妬心と怒りが込み上げてきて、彼に実際に銃を突きつけ、〈愛らしい娘〉との関係をなじる緊迫したシーンが挟まれることによって、彼女の思い詰めた精神状況がよくわかるようになっている。

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  • この射殺のシーンはこの物語の最大の見せ場のひとつだ。ある日、〈ごろつき〉が〈愛らしい娘〉の家に入り込んで関係を迫ろうとする(子供を取り戻す手段を見出したと噓をついて)。後をつけたきた〈友人なき女〉は、廊下から扉越しにその様子を窺いながら憤怒に満ちた表情を浮かべる。〈ごろつき〉の不審な動きを察知した〈青年〉も、妻がまさに襲われんとしている現場に駆けつける。〈青年〉がやって来たときにすばやく廊下の窓から外に出て身を隠した〈友人なき女〉は、建物の外側をアクロバティックにつたって〈愛らしい娘〉の家の窓から室内を窺う。扉を打ち破って〈ごろつき〉に殴りかかる〈青年〉。揉み合っている最中の〈ごろつき〉に、〈友人なき女〉はしばしのためらいの後に発砲し、ピストルを室内に投げ入れて逃走。こうして、〈ごろつき〉殺害の罪が〈青年〉に着せられることになる(以下の画像は『イントレランス』より)。

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  • このシーンで〈友人なき女〉がピストルの引き金を引くとき、彼女の頭には、かつて〈青年〉と別れの握手を交わした瞬間が蘇る。『イントレランス』ではこのワンショットのフラッシュバックの物語的な意味がやや分かりにくい印象だが(そのせいか、このショット自体がないプリントもある)、『母親と法律』を見れば、嫉妬に狂った〈友人なき女〉が、駆けつけた〈青年〉(かつての恋人)の姿を見て、彼を諍いに巻き込んでしまうのを躊躇したと考えるのが自然だろう。ミリアム・ハンセンがこのフラッシュバックに関して「殺人者の動機を徹底的に多重決定された、曖昧なものにしている」と書いているように(Babel and Babylon, p.159)、〈友人なき女〉の犯行には単なるストーリー展開上の都合を超えた、一種の実存的な深みがあるように思う。

 以上のように、『イントレランス』の「現代篇」と『母親と法律』には、注目すべき多くの差異がある。異なる時代との(特に結末付近での)目眩くモンタージュという革新的な手法によって多少の省略などものともしない「現代篇」と、よりクラシカルで通俗的といえば通俗的な『母親と法律』。テクストとして興味深いのはもちろん前者であるとはいえ、後者の叙情にも捨てがたいものがある。

【文献案内】

  • 英語文献では、Miriam Hansen, Babel and Babylon: Spectatorship in American Silent Film (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1992)第2部の『イントレランス』論(pp.127–241)が圧倒的に密度の濃い議論を展開している。この本は1980年代までの『イントレランス』論の集大成のような位置づけになっているので、ここから遡って気になるものを読むのがよい。
  • フランス語文献もたくさんあるが、Pierre Baudry, « Les aventures de l'Idée (sur Intolérance) » (Cahiers du cinéma, nº 240, juin-août 1972, nº 241, septembre-octobre, 1972)が目を引く。先立つ号には、同じくピエール・ボドリーらによる『イントレランス』のショットごとの記述もなされている。

ストローブの新作『ロボットに対抗するフランス』(2020)に寄せて

 以下に訳出するのは、ジャン゠マリ・ストローブの約9分間の新作短篇『ロボットに対抗するフランス』La France contre les robots (2020)で読み上げられている文章である(この短篇は、4月5日にKino Slangで公開され、現在では製作元Belva FilmsのYouTubeチャンネルでも見ることができる)。

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 作品内でクリストフ・クラヴェールが朗唱するこのテクストは、作家ジョルジュ・ベルナノス(1888-1948)が移住先のブラジルで1945年に執筆し、翌年に刊行された同名の評論の一節である(第1章の第2パラグラフの全体が使われている)。原書はフランス国立図書館Gallicaで入手できるが、管見の限り、邦訳はなされていない。

 映画の文脈でベルナノスといえば、何と言っても、ロベール・ブレッソンの『田舎司祭の日記』(1951)の原作者であるカトリック小説家として知られていよう(もちろん、同じくブレッソンの『少女ムシェット』(1967)とモーリス・ピアラの『悪魔の陽の下に』(1987)も忘れてはならない)。ストローブとダニエル・ユイレが、まだ一本も映画を撮っていない1954年の時点で、ベルナノスの初期の作品『影の対話』Dialogue d’ombres三輪秀彦訳、『世界の文学52 フランス名作集』所収、中央公論社、1966年)の映画化という企画を温めていたのも、おそらくブレッソンの映画の影響だろう。それからおよそ60年を経た2013年、ストローブはそのフィルモグラフィーで初めてベルナノスに依拠した作品として、約30分の短篇『影の対話』を仕上げることになる。

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 こうした事情を踏まえると、ベルナノスはストローブ゠ユイレの潜在的な関心の対象であり続けていたのかもしれない。だが、この二人の映画作家ブレヒトパヴェーゼヴィットリーニといった左派の作家たちを繰り返し取り上げてきたことを思うと、ベルナノスという選択はやや意外にも響く。というのも、ベルナノスは、若くしてシャルル・モーラス率いる極右王党派のアクシオン・フランセーズに心酔し、反ユダヤ主義の奇書『ユダヤ的フランス』の著者エドゥアール・ドリュモンについての評伝『良識派の大いなる恐怖』(La Grande peur des bien-pensants, 1931)を書いたかと思えば、スペイン内戦に際して『月下の大墓地』(邦訳は春秋社の『ベルナノス著作集』第4巻所収)を書いて反ファシズムの立場に鞍替えし、その後7年間にわたって南米で暮らしたという、イデオロギー的には捉えがたい人物だからである。

 たとえば、フランスの歴史家ミシェル・ヴィノックの『知識人の時代』塚原史・立花英裕・築山和也・久保昭博訳、紀伊國屋書店、2007年)では、彼の政治的立場は次のようにまとめられていて、ストローブ゠ユイレの世界の一画を占めるにふさわしいとはあまり思えないのも事実である。

この作者の立場は独自のものであり、さらには唯一のものであった。キリスト教系民主主義者の一族にも、また保守派右翼にも与せず、かといって『エスプリ』を中心に生まれ、発展しつつあったこの左翼カトリックにより一層近づくこともなかったベルナノスが忠実であろうとしたのは、自分の起源である王党派と、反ユダヤ主義の老いた師ドリュモン、そして自由の精神がしっかりと存在していた古きフランスという夢であった。(344頁)

 ストローブが今回取り上げている小冊子『ロボットに対抗するフランス』も、全体としては、機械文明の批判が骨子であり、近代における機械への隷属と人間のロボット化に対抗して、「精神的な革命」、すなわち「世界のなかで精神的なもろもろの力があらたに炸裂する必要」を訴えるというのが基本的な構図となっている(ただし、いま引いた語句は、『著作集』第6巻に邦訳が収められている小文「ロボット的人間の横行する病める世界において、フランスは精神の蜂起ののろしを上げるであろうか?」(渡辺義愛訳)から取った)*1

 おそらく、こうしたコンテクストを真正直に踏まえる必要はないのだろう。実際、以下の引用箇所だけを切り離して読めば、左右の政治的イデオロギーに立脚せず、資本主義と結託した〈技術〉の支配に対して強烈な「否」を突き付ける身振りが、力強くせり上がってくる。ベルナノスは「戦後」のヨーロッパ精神の腐敗に対して、歯に衣着せぬ苛烈な批判を放ち、四面楚歌になったという(『著作集』第6巻の渡辺一民による解説を参照)。孤立を懼れない根底的な抵抗の身振りに倣おうとするストローブは、依然として意気軒昂であるようだ。


 〈革命〉という言葉は、我々フランス人にとって、漠然とした言葉ではない。我々は〈革命〉がひとつの断絶、ひとつの絶対であることを知っている。穏健な革命や、計画経済と言うときのように計画された革命などというものは存在しない。


 我々が予告する革命は、現下のシステム全体に対抗してなされるか、さもなければまったくなされないだろう。もしこのシステムが自らを正すことはありうる、つまり〈独裁〉――金銭の、人種の、階級の、あるいは〈国家〉の――へと向かって行く避けがたい進展の流れをおのずから断ち切ることができる、と考えるのであれば、我々はもちろん、爆発的変化[une explosion]のリスクなど冒そうとはしまい――それはかけがえのない物事を破壊しかねず、破壊されたものは長い時間と辛抱強さと無私無欲と愛をもってしか元通りにならないだろうから。


 だが、システムはその進展の流れを変えることはないだろう。すでにもはや進展していないからである。システムはそれがもう一瞬間続くこと、生きながらえることだけを目指しておのれを組織しているのだ。


 システムは、それに固有の矛盾の数々を解決すると言うどころか――そんな矛盾はそもそも解決不可能なのだろう――、ますますそれらを力づくで押し付ける気でいるようだ。それも、独裁の民主主義的形態たる一種の国家社会主義の名の下で、個別の活動に関してなされる規制が、日ごとにより入念かつ厳密になっていくおかげである。


 実際、日ごとに我々のもとに届けられる証拠が、ニューヨークでもモスクワでもロンドンでも、イデオロギーの時代がかなり前から古びていることを示している。我々が目の当たりにしているのは、イギリスの傲然たる民主主義、アメリカの金権政治にまみれた民主主義、ソヴィエト各領土からなるマルクス主義帝国が、手に手を取って歩んでいるとは言わないまでも――とんでもない!――、少なくとも同じ目的を追求しているさまだ。すなわち、どの体制もシステムの内側で富と権力を獲得した以上、システムに対抗しているようにみえようとも、実は何が何でもシステムを維持しようとしているのだ。


 というのも、結局のところ、ロシアはアメリカやイギリスに劣らず、資本主義のシステムから利益を得たからだ。反対派に属することで財をなすという国会議員の古典的な役割を果たしたわけである。


 要するに、かつてイデオロギーによって対立していた体制どうしが、いまや技術によって緊密に結びついている。実際、どんな愚か者でも理解できるように、戦争状態にある政府が用いる技術は、風俗習慣によって説明のつく些細な個別事情によってしか違わない。


 総力平和に向けた総動員を待ちながら、総力戦に向けた総動員を保証することがつねに問題になっている。〈技術〉にとっては勝ち取られた世界でも、〈自由〉にとっては敗北なのである。

  • 原文(以下参照)ではこの抜粋全体で一つの段落を構成しているが、ここではウェブ上での読みやすさを優先し、適宜改行を施した。

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*1:ちなみに、アンドレ・バザンに知的影響を与えたことでも知られる『エスプリ』誌のエマニュエル・ムーニエは、このベルナノスの小冊子を「機械化に抗議する最悪の知的貧困」とこき下ろし、みずから『20世紀の小さな恐怖』La Petite peur du XXe siècle (1948)を刊行して技術擁護論を展開した(ヴィノック、前掲書、480頁を参照)。

ペドロ・コスタ監督のトーク採録(出町座)/Entretien avec Pedro Costa (à Demachi-za, Kyoto)

 出町座で2019年12月2日(月)に『溶岩の家』Casa de Lava (1994)の特別上映後に行われたペドロ・コスタ監督のトーク(わたしが聞き手・通訳を務めて、フランス語で行われた)を以下に採録する。なお、このトークの大部分は、ラジオ関西の映画情報番組「シネマキネマ」(2020年1月4日深夜の回)でもオンエアされた。

 本ブログでの公開を快諾してくださったペドロ・コスタ監督、京都への監督の招聘にご尽力されたヴュッター公園の田村尚子氏と西原多朱氏、監督の長篇第一作『血』O Sangue (1989)と第二作『溶岩の家』の緊急特別上映&トークを魔法のように実現させた出町座の田中誠一氏、そしてトークの音源を提供してくださった「シネマキネマ」の吉野大地氏にこの場を借りて御礼申し上げる。

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出町座を来訪するペドロ・コスタ監督 photo: Naoko Tamura

――『溶岩の家』を撮るにあたって、ポルトガルを離れてカーボヴェルデに赴くという考えはどこから来たのでしょうか。

 こんばんは[日本語で]。当時は政治的に状況が複雑で、ポルトガルの居心地があまりよくありませんでした。そこで、どこか別の場所に行こうと思い立ち、パウロ・ブランコというプロデューサーを見つけ、彼にカーボヴェルデのフォゴ島に行く旅費を出してもらうよう頼みました。ジャック・ターナーの『私はゾンビと歩いた』I Walked with a Zombie (1943)のリメイクを作るというアイデアがあったからです。

――この『溶岩の家』と続く『骨』Ossos (1997)は、いま言及なさったパウロ・ブランコによって製作されました。彼は日本でも伝説的なプロデューサーとして有名です。当時、彼とはどのような関係でしたか。

 私はリスボンで映画学校に通ったのですが、2年でやめてしまいました。2年目が終わるとき、クラスメートの友人に、ある映画の助手として働く気がないか尋ねられ、ほんのちっぽけな仕事でしたが「やる」と言って、学校をやめました。助手としていろいろな映画で本腰を入れて仕事をし始めたからです。それがパウロ・ブランコ製作の映画でした。
 当時、彼はたくさんの映画を製作し始めた時期でした。オリヴェイラヴェンダースラウール・ルイス、アラン・タネール、ヴェルナー・シュレーター等の映画です*1。いくつかの映画で助手を務めました。こうして付き合いが始まり、第一作の『血』を撮った後、電話で連絡をもらいました。『血』がとても気に入った、プロデューサーが必要なら私がやろう、と。私は、分かりました、それならカーボヴェルデに行きたいです、と言いました。
 パウロ・ブランコとの関係については、彼が日本でどう思われているか分かりませんが、ヨーロッパでは非常に知的で、映画好きの人物、起業家にして、海賊、ギャングと思われています。ですが、私と彼との関係はつねに良好で、非常に真摯で誠実なものでした。そして『溶岩の家』の体験があり、それもうまくいったので、一緒にもう一本の映画――『骨』――を作ることにしました。そういうわけで、当時についてはよい思い出を持っています。リスボンで彼によく会うのですが、今では会うたびにこう言われます。ああ、もう誰もしゃべる相手がいない、みんな死んでしまった。セルジュ・ダネーも、シャンタル・アケルマンも。私はたった一人だ、と。
 [ここまでの通訳を終えた後に]ところで、二つ言いたいことがあるのですが、まずここはとても綺麗な映画館ですね。それから、[いまこうしてビールを飲んでいますが]私はアル中ではありません(笑)――今のところはね(笑)。

――第一作の『血』は、おそらく無意識的なものも含めて、シネフィル的な参照に溢れていて、まるで映画の世界の海に浸っているような映画でした。『溶岩の家』を見ても、ただちにいくつかの映画が思い浮かびます――先ほど挙げられたターナーの『私はゾンビと歩いた』、ロッセリーニの『ストロンボリ』Stromboli (1950)、そしてエディット・スコブを介してジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』Les Yeux sans visage (1959)などです。こうした参照は意図的なものでしたか。映画史に対する態度という点で、最初の二作の間に違いはありましたか。

 第一作は、私が好きだったたくさんの映画に由来しています。特にニコラス・レイの作品群、アメリカのフィルムノワールの無数の作品――そうしたものが好きでしたし、それは今でも変わりません。つまり、1930年代から50年代にかけての古典的映画です。
 『血』は夜の映画で、非常にロマンティックでもあります。私は当時、映画館の中で暮らしていたも同然でした。そのため第一作は、ニコラス・レイムルナウフリッツ・ラング等の世界から出てきたような、そうした世界に取り憑かれ、棲み着かれたものになっています。
 『溶岩の家』ではそれが少し変化し、参照がより少なくなったと言えるでしょう。しかしながら、たとえば火山が出てくる映画を、ロッセリーニに思いを至らせずに撮ることなど誰にもできませんし、同様に、誰も宗教についての映画を、ブレッソンのことを考えずに撮ることはできません。
 『溶岩の家』は、自分が本当に好きなものは何か、私にしか作れない映画をどうすれば作れるのか、真剣に考え始めた映画でした。そのため、他の映画のことをあまり考えなくなったのです。おそらく、遠く離れたところ、何もなく、電気もほとんど通っていない島に滞在するという、ラディカルな体験をしていたことも理由の一つでしょう。自分が少し変わらなければならない、自分の人生で何かを変えなければならない、と私に強く考えさせた映画でした。この映画が私に教え、告げてくれたのは、自分が風景やフィクションをあまり好んでおらず、むしろ家や部屋が好きで、自分が現実の人々、現実の生活、要するにドキュメンタリー的なものの傍らにいる、ということでした。

――ここに『溶岩の家』の準備段階で作られたノート、通称「スクラップ・ブック」があります*2。これは写真(特に女性の肖像)、絵画、新聞の切り抜き、シナリオの断片等がコラージュされたものです。これぞまさしく、ゴダール的な意味での「イメージの本」なのではないかと言いたくなります。このノートは、シナリオ(脚本)を準備するのとは別に作られたのですか。撮影中、このノートが持ち得た役割や機能は何でしたか。

 たしかにこのノートは、ジャン゠リュック・ゴダールの実践にとても近しいものです。ゴダールはつねにこうしたことを自分の映画だけでなく、「シナリオ」でも行ってきました。彼の脚本はつねに、糊で貼られたイメージや切り抜きで出来ています。そういうわけで、このノートはゴダールに由来するものですが、彼もまた、彼にとって非常に重要なある人物、私に言わせればあらゆる映画作家にとってかなり重要な数々の本を書いた人物の真似をしたのです。その人物とはアンドレ・マルローで、とりわけ『沈黙の声』や『想像の美術館』という本を書いた人物です。マルローの考え――ゴダールはいつものようにその真似をしたのですが――は、あらゆるものを一緒くたにできる、ということです。北斎マン・レイミケランジェロとジャン゠マリ・ストローブ、ピカソと人類最初の素描であるラスコーの洞窟、というように。芸術には過去も未来もなく、現在だけがある。偉大な映画や偉大な絵画はつねに今日のものなのです。古い映画などというものはなく、今日の映画だけがある。ちょうどピカソの絵を見に行くとき、それが今日のものであるように。そうした考えです。

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「スクラップ・ブック」とゴダールの『パッション』準備稿
 私はこの緑のノートを手にしていました。これは学習用ノートで、日本製ではないかと思っています。表紙にあるのが日本のメーカーのマークなのではないかと。分かりませんが。たしかリスボンで購入して、カーボヴェルデに持ち込み、そこで絵葉書や何やらを貼り付け始めました。これは私の秘密のノートで、つねに自室にあり、鞄の中に入れていました。このノートは、シナリオ(脚本)とは別のものでした。当時、私はまだ古典的なシナリオ、100頁くらいの台詞のあるシナリオを書いていました。リュックサックに入っているノートは、シナリオとは別物でしたが、私はこのノートの方を真の「シナリオ」とみなしていました。こういうものをこそ作りたかったのです。
 こういう「シナリオ」によってお金を得ることができればとても良いと思います。単に自分のためだけでなく――というのも、これはとても優れた仕事道具で、自分が何をしたいか正確に分かるようになる、つまりイメージこそがアイデアをもたらしてくれるという意味で、まさに「イメージの本」なのですが――、どんな映画作家でも、若い映画作家でも、こうした「本」や「シナリオ」を作って、プロデューサーや財団に渡し、それを元にして多少の製作費を受け取れるような世界に暮らしたいと思っています。それが不可能なのは、人々が書かれたもの、言葉、台詞を望むからです。プロデューサーたちがイメージをまったく望んでいないのは残念なことです。

――『溶岩の家』から、非職業俳優を使い始めますね。カーボヴェルデの人々はみな、島の住人と思われます。ティナやタノ、アマリア、そしてマリアナにサンダルを売る市場の女性といった主要人物をどのように選んだのですか。

 たしかに、当時すでに職業的な俳優たちに対して、嫌悪感とまでは言いませんが、警戒心を抱いていました。職業的な俳優たちには、どこかあまり好きになれないところがあったのです。アマチュア俳優、俳優ならぬ俳優たちを選んだのは、職業的な俳優に最も抵抗できるのはどんな人たちだろうか、職業的な俳優に真の怖れを抱かせることができるのはどんな人たちだろうかと考えたからです。たとえば、少年のタノ、少女、アマリアといった、私が出会った人々はみな、非常に強いものをもっていて、私が連れてきた職業的な俳優たちに抵抗しうるようにみえました。
 私は、非職業俳優が仮借のない、岩のような人物であって欲しいと思っていました。なにしろ「溶岩」や「火山」の映画なのですから。私が望んでいたのは、物静かで、仮借なく、容易に入り込めず、つねに「ノン」と言いうる人たちです。

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左より、『溶岩の家』のティナ、アマリア、サンダルを売る市場の女性

――『溶岩の家』で特徴的だと思われるのは、ポルトガル語クレオール語の混ざり合いです。ポルトガル語を解さない人には、両者を聞き分けるのは難しいですが、台詞をたどると、エディットはポルトガル語を忘却し、クレオール語しか喋らなくなった人物であること、マリアナはゆっくり喋ってもらえばクレオール語を理解できること等が分かります。ポルトガル人として、クレオール語にどのような感覚を抱いていますか。また、イザック・ド・バンコレ、エディット・スコブ、ペドロ・エストネスといった職業的な俳優たちにクレオール語を喋らせる際に困難はありませんでしたか。

 ポルトガル語とのクレオールだけでなく、あらゆるクレオール語には、抵抗の言語でもあるという側面があります。主にアフリカ諸国やラテンアメリカ諸国で、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリス等のあらゆる植民者たちが、自分たちの言語を押し付けたのです。ですから、カーボヴェルデで喋る言葉、マリアナが出会うことになる言葉は、ポルトガル語ではなく、現地の言葉でなければなりませんでした。俳優たちはみな、言葉を学ばなければならず、実際にそうしました。その過程では、人となりがなにがしか出るものです。エディット・スコブは瞬く間にクレオール語を習得し、村の人たち同様に喋っていて、信じられないくらいでしたが、イザック・ド・バンコレは決してクレオール語をうまく喋れるようにはなりませんでした。彼は抵抗し、望まなかった。エディット・スコブは島に入り込み、その一部となることを強く望んでいましたが、イザックはなぜだか分かりませんが――たぶん彼自身アフリカ系で、しかも非常にパリ的なアフリカ系だからかもしれません――抵抗を示し、決してしかるべくクレオール語を習得しませんでした。ともかく、そういう事情だったのです。

――『溶岩の家』では、マリアナは絶えず歩いている(しかも、決然として、躊躇のない様子で)という印象を受け、それがトラヴェリングの使用と対応しているように思われます。マリアナが病院を去って市場へ行くところが長いトラヴェリングで撮られるシーンや、彼女が車椅子のレオンを押して歩くシーンは非常に印象的です。しかし、こうしたトラヴェリングを監督はもうお使いにならず、『ヴァンダの部屋No quarto da Vanda (2000)以降は固定ショットを好んでいるように見受けられます。いま振り返ってみて、映画に運動感や一種の軽快さをもたらすこの技法についてどうお考えでしょうか。

 当時は私もカメラを動かすことができました。そのための手段があり、プロデューサーがいて、機材もあったので、そうすることができたのです。その後、デジタル・ヴィデオで、たった一人、あるいはごくわずかの人と一緒に、ほんのわずかな予算で映画を作り始めたため、いささかの制限が生まれるようになり、今ではカメラを動かすことが少なくなりました。そのための手段がないし、トラヴェリングの設置をしたりする忍耐を多少失ったということもある。今の私にとっては、他の事柄についての作業の方が重要なのです。
 カメラの動きや、それがもたらす軽快さについて言えば、私はそれがカメラの動きによってもたらされるとは考えていません。軽快さはむしろ、俳優たちの動きや、ショット内の事物の動きのなかにあるのかもしれない。カメラを動かしたからといって、運動が生じるわけではないのです。そういうわけで、私はカメラを動かすのを止めて、ある場所に置くことにしました。そうした撮影を繰り返すうちに、その方がいいと思うようになった。いわば別の種族になったのです。

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――『溶岩の家』では、エディットの夫がおそらく政治活動に関わって、強制収容所のタラファルで死んだらしいことや、看護婦のアマリアがかつてタラファルの料理人を務め、秘密裏にエディットとその夫の通信の手助けをしていたらしいことが少しずつ分かってきます。真夜中に、エディットの住む建物の屋上で、エディットとアマリアが一緒に踊るシーンは、そこで「前に進む若さ(Juventude em Marcha)」[『コロッサル・ユース』のポルトガル語原題、字幕では「青春バンザイ」]という台詞によって二人の間の共犯関係が示されることもあって、実に感動的です。タラファルと、それが本作で意味することについてお話いただけますか。

 タラファルという監獄は、ナチス風の強制収容所です。世界で初めての強制収容所の一つは、ポルトガルのもので、撮影していた島に、打ち棄てられた状態で存在していました。私にとって、それを看過することは不可能でした。撮影をしていた島はあまり大きくありませんでしたし、若いときは――今でも多少そうですが――とてもラディカルで、極左でしたので、タラファルについて語らないなどということは不可能だと思いました。そういうわけで、この女性、囚人の寡婦、囚人の孤児のようなこの女性の物語を作り出したのです――タラファルで死んだポルトガルのあらゆる抵抗者へのちょっとしたオマージュとして。

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 トークの最中には話題にする時間的余裕がなかったが、『溶岩の家』は音楽が非常に印象的な作品でもある。冒頭、カーボヴェルデの火山がしばらく映されると、突然、パウルヒンデミットの《無伴奏ヴィオラソナタ》Op.25-1の第4楽章の激しい旋律が流れ始める(ヒンデミット自身の1934年の録音がここで聞ける)。「荒れ狂ったテンポで。荒々しく。音程の美しさは二の次で」という指示の書かれた、この「パンク」とも言える楽曲は、ゴダールも『ヌーヴェルヴァーグNouvelle Vague (1990)や『映画史』Histoire(s) du cinéma (1988-98)でたびたび用いており、監督自身、その符合に後から気づいたそうだ。なお、トークの日はたまたま、ゴダールが89歳の誕生日を迎える前日だった。その晩の打ち上げの席では、夜中の12時が近づくにつれて監督がそわそわし始め、日が変わった途端に(日本時間ではあるものの)、皆でゴダールに乾杯するという忘れがたい瞬間もあった。

採録・翻訳:堀 潤之)

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トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)の日本版ポスターのアントワーヌ少年を真似るペドロ・コスタ監督 photo: Kazuhito Matsumoto


Entretien avec Pedro Costa (à Demachi-za, Kyoto)

Le 2 décembre 2019, j’ai mené un entretien avec Pedro Costa à Demachi-za, la salle de cinéma d’art et essai à Kyoto, à l’occasion d’une projection spéciale de son deuxième long-métrage, Casa de Lava (1994). Voici la retranscription intégrale de cette conversation. Une partie de cette séance a été diffusée le 4 janvier 2020 dans le cadre de l’émission radiophonique « Cinema-Kinema » sur Radio Kansai.

J’adresse tout d’abord mes remerciements à Pedro Costa, qui a donné son accord pour publier ici cet entretien. J’aimerais aussi remercier Naoko Tamura et Tazz Nishihara (Vutter Kohen) d’avoir organisé le séjour à Kyoto du cinéaste, Sei-ichi Tanaka de Demachi-za d’avoir programmé dans l’urgence cette séance spéciale consacrée à Pedro Costa, et Daichi Yoshino de l’émission « Cinema-Kinema » de m’avoir fourni l’enregistrement de l’entretien.

*

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––D’où vient l’idée de quitter le Portugal pour tourner Casa de Lava au Cap-Vert ?

Kon-banwa [en japonais]. C’était un moment politiquement très compliqué, pas très agréable à ce moment-là chez moi, alors je me suis dit que je devais aller ailleurs. J’ai trouvé un producteur qui s’appelait Paulo Branco, et je lui ai demandé de me payer un voyage sur l’île de Fogo, au Cap-Vert, parce que j’avais l’idée d’y faire un remake de I Walked with a Zombie de Jacques Tourneur.

––Votre deuxième et troisième films, Casa de Lava et Ossos (1994), ont été produits par Paulo Branco que vous venez d’évoquer, nom légendaire même pour le public japonais. Quels ont été vos rapports avec lui, à cette époque ?

Moi, j’ai fait l’école de cinéma de Lisbonne, je n’ai pas fini, j’ai fait deux ans. Et à la fin de la deuxième année, il y a un ami, un collègue, qui m’a demandé si je voulais travailler sur un film comme assistant producteur, vraiment juste un très petit boulot. Moi j’ai dit oui. C’est pour ça que j’ai quitté l’école, parce que j’ai commencé à travailler sur beaucoup de films comme assistant, et c’étaient des films produits par Paulo Branco.

C’est le moment où il a commencé à produire beaucoup de films : Oliveira, Wenders, Raoul Ruiz, Alain Tanner, Werner Schroeter, beaucoup de films. J’étais assistant sur plusieurs films qu’il a produits. Donc on a fait connaissance et, après avoir fait mon premier film, Le Sang (1989), il m’a contacté. Il avait beaucoup aimé le film, et il m’a dit : « si tu as besoin d’un producteur, je suis là ». Moi, j’ai dit : « d’accord. Bon, je veux aller au Cap-Vert ».

Je ne sais pas quelle est l’idée qu’on se fait de Paulo Branco ici au Japon mais, en Europe, c’est à la fois un homme très intelligent, très cinéphile et entrepreneur, oui, mais c’est aussi un pirate, un gangster. Mais moi j’ai toujours eu de bons rapports avec lui, très sincères et très honnêtes. On a fait une expérience avec Casa de Lava. Ça s’est bien passé avec lui, si bien qu’on a décidé de faire un autre film ensemble qui a été Ossos. Donc j’ai un bon souvenir de ce temps-là. Je le vois souvent à Lisbonne. Maintenant chaque fois que je le vois, il dit : « oh, il n’y a plus personne à qui parler, ils sont tous morts, Serge Daney, Chantal Akerman, je suis tout seul ».

[après la traduction consécutive en japonais] Deux choses. C’est une très belle salle, et [même si je bois en ce moment de la bière] je ne suis pas alcoolique… pas encore (rires).

––Dans votre premier film, Le Sang, il y avait plein de références cinéphiliques qui étaient probablement inconscientes. On dirait que ce film était plongé dans la mer de l’univers cinématographique. En regardant Casa de Lava, on pense immédiatement à quelques films de l’histoire du cinéma, notamment à Vaudou (I Walked with a Zombie) de Tourneur et à Stromboli de Rossellini (et peut-être aussi aux Yeux sans visage de Georges Franju). Est-ce que ces références étaient volontaires ? Y a-t-il une différence, au niveau de votre attitude à l’égard de l’histoire du cinéma, entre les deux premiers films ?

Pour le premier film, ça venait de beaucoup de films que j’aimais, surtout des films de Nicholas Ray, et beaucoup de films noirs américains que j’aimais et que j’aime encore. C’est le cinéma, disons, classique des années 30, 40, 50. C’était un film très nocturne, très romantique aussi. Dans ces années-là, je vivais pratiquement dans les salles de cinéma, tout le temps. Donc ce premier film est sorti un peu hanté, peuplé par ce monde de Nicholas Ray, Murnau et Fritz Lang etc. Avec Casa de Lava, ça a changé un peu, je dirais que c’est moins référentiel. Mais personne ne peut faire un film avec un volcan, par exemple, sans penser à Rossellini, c’est impossible. Comme personne ne peut faire un film sur la religion et ne pas penser à Bresson, c’est la même chose.

Casa de Lava, c’est le film où j’ai vraiment commencé à penser à ce que j’aimais vraiment, à comment je pouvais faire des films qui seraient à moi. Donc j’ai commencé à penser moins aux autres films. Peut-être parce que j’étais très loin, j’étais dans une île où il n’y avait rien, presque pas d’électricité, et c’était une expérience très radicale. Et c’est vraiment le film qui m’a fait penser que je devais changer un peu, changer quelque chose dans ma vie. C’est le film qui m’a appris, qui m’a dit : voilà, tu n’aimes pas beaucoup les paysages, la fiction, tu aimes plutôt les maisons, les chambres, tu es plutôt du côté des gens réels, de la vie réelle, peut-être du documentaire, pour simplifier.

––Voici le cahier de préparation, alias « Scrapbook », pour Casa de Lava. C’est un collage de photos (surtout des portraits de femmes), de peintures, de coupures de journaux, de fragments de scénario, etc. Je suis tenté de dire que c’est cela le « livre d’image » au sens godardien. Avez-vous construit ce cahier en dehors de la préparation du scénario ? Quel a été le rôle, la fonction qu’il pouvait avoir pendant le tournage ?

Effectivement, c’est très proche de la pratique de Jean-Luc Godard, il a toujours fait un peu ça dans ses films et aussi dans les scénarios qu’il fait, ses scripts. C’est toujours des images collées, des coupures… Donc ça vient de lui, mais lui, il a copié ça de quelqu’un qui était très important pour lui et qui a écrit des livres assez importants pour, moi je dirais pour les cinéastes. C’est André Malraux, qui a surtout écrit un livre qui s’appelle Les Voix du silence et aussi Le Musée imaginaire. L’idée de Malraux, que Godard a copié comme toujours, c’est qu’on peut mettre tout ensemble : Hokusai avec Man Ray, Michelangelo avec Jean-Marie Straub, Picasso avec les grottes de Lascaux, premiers dessins de l’homme. Les arts n’ont pas de passé ou d’avenir, il n’y a que du présent. Les grands films et les grands tableaux sont toujours d’aujourd’hui. Il n’y pas de films vieux, il n’y a que des films d’aujourd’hui, comme quand vous allez voir un Picasso, c’est d’aujourd’hui, c’est ça l’idée.

Moi, j’avais ce cahier vert. C’est un cahier d’écolier, et je me demande d’ailleurs si ce n’est pas japonais. Je me suis toujours demandé ce qu’il y avait sur la couverture, si ce n’était pas une marque japonaise, je ne sais pas. Je l’ai acheté, je crois, à Lisbonne, et je l’ai pris au Cap-Vert où j’ai commencé à coller des choses : des cartes postales, etc. C’est un cahier secret pour moi. Il était toujours dans ma chambre ou dans mon sac. Il était à côté du scénario, parce qu’à ce moment-là, j’écrivais encore des scénarios, un scénario classique, 100 pages, dialogues, etc. Il était dans mon sac à dos, et il était à côté du scénario, mais moi j’ai toujours considéré ça comme le vrai scénario. C’est ça que je voulais faire.

Ça serait très bien si on pouvait avoir des scénarios comme ça pour trouver de l’argent, et pas seulement pour soi-même, parce que c’est un outil de travail très bien. Parce que vous savez exactement ce que vous voulez faire, ce sont des images qui vous donnent des idées, et là c’est vraiment un « livre d’images ». Moi, j’aimerais beaucoup vivre dans un monde où n’importe quel cinéaste, jeune cinéaste, pourrait faire un livre comme ça, un scénario comme ça, et le donner à un producteur, ou une fondation, et ce serait sur cette base il aurait un peu d’argent pour faire un film. C’est impossible parce que les gens veulent de l’écrit, ils veulent des paroles, des dialogues, les producteurs ne veulent pas l’image, du tout, et c’est dommage.

––À partir de Casa de Lava, vous commencez à faire appel à des acteurs non-professionnels. J’imagine que les gens du Cap-Vert sont tous des habitants des îles. Comment avez-vous choisi les personnages principaux (comme Tinna, Tano, Amalia, et la fille qui vend des sandales à Mariana) ?

En effet, je pense qu’à ce moment-là je commence déjà à––ce n’est pas ne pas aimer mais––à me méfier, à douter des acteurs professionnels. Il y avait quelque chose que je n’aimais pas trop chez les acteurs professionnels. J’ai choisi des acteurs amateurs, des acteurs qui n’étaient pas acteurs, juste parce que j’ai pensé qu’ils étaient les gens, les personnes, qui pouvaient résister le plus aux acteurs professionnels, qu’ils étaient les gens qui pouvaient vraiment faire peur aux acteurs professionnels. Par exemple, le garçon, Tanno, la fille ou Amalia, tous les gens que j’ai rencontrés paraissaient très forts, résistants aux acteurs professionnels que j’avais avec moi.

C’est juste que je voulais que les acteurs non-professionnels soient comme des gens très durs, comme des rochers, des roches, parce que dans Casa de Lava, « Lava » c’est la lave, le volcan. Je voulais des gens silencieux, durs, impénétrables, qui pouvaient dire non, toujours non, non, non.

––Ce qui semble très caractéristique dans ce film, c’est le mélange du portugais et du créole. Pour ceux qui ne comprennent pas le portugais, c’est difficile de les distinguer en écoutant, mais en suivant les dialogues, on comprend que le personnage d’Edith est quelqu’un qui a oublié le portugais et ne parle que le créole, que Mariana comprend le créole quand on le parle lentement, etc. En tant que portugais, quelle image avez-vous à l’égard du créole ? Et n’aviez-vous pas de difficulté à faire parler le créole aux acteurs professionnels comme Issach de Bankolé, Edith Scob, et Pedro Hestnes ?

Le créole, comme tous les créoles, pas seulement le créole portugais, tous les créoles sont un peu des langues aussi de résistance. Normalement ce sont des langues des pays africains, ou des pays de l’Amérique latine, là où tous les colonisateurs, portugais, espagnol, français ou anglais, ont tous imposé leur langue. Donc ce qu’on parle au Cap-Vert, ce que Mariana va rencontrer, ce n’est pas le portugais, c’est la langue qu’on parle là-bas, il fallait faire ça. Donc il fallait que tous les acteurs apprennent, ils ont appris, c’était extrêmement facile. Ça dit quelque chose sur les gens, sur leur personnalité. Edith Scob a appris le créole comme ça (claque des doigts), en trois secondes elle parlait comme les gens du village, c’était incroyable. Et Issach de Bankolé n’a jamais bien parlé le créole, il a résisté, il ne voulait pas, ne voulait pas. Edith Scob voulait vraiment se perdre dans l’île, elle voulait en faire partie. Mais Issach, je ne sais pas pourquoi, peut-être parce qu’il était lui-même africain, mais un africain très parisien, ou peut-être qu’il a résisté, il n’a jamais appris le créole comme il fallait. Bon, je ne sais pas, c’est comme ça.

––On a l’impression que Mariana est une femme qui n’arrête pas de marcher (d’ailleurs de façon très résolue sans hésitation), et cela correspond à l’utilisation de travelling dans ce film. La scène où elle quitte l’hôpital vers le marché, tournée en long travelling, et la scène où elle pousse Leão dans un fauteuil roulant sont très impressionnantes. Mais il semble que vous n’invoquerez plus le travelling pour préférer le plan fixe, notamment à partir de Dans la chambre de Vanda (2000). Que pensez-vous maintenant (rétrospectivement) de cette technique et de ce qu’elle apporte à un film––un sens de mouvement, une certaine légèreté, allégresse etc. ?

C’était une époque où je pouvais faire des mouvements, j’avais les moyens, j’avais les producteurs, j’avais les machines, donc je pouvais faire les choses. Après, j’ai commencé à faire des films en digital, en vidéo, tout seul, ou avec très peu de gens, et avec très très peu d’argent. Donc j’ai commencé à être un peu limité, et voilà je fais maintenant moins de mouvement parce qu’on n’a pas de moyens, parce que j’ai perdu un peu de patience, disons. Installer des travellings et tout ça… Pour moi maintenant, c’est plus important de travailler sur d’autres choses. Et les mouvements, la légèreté dont vous parlez, je ne crois pas qu’elle soit dans les mouvements de l’appareil. Elle est peut-être dans les mouvements des acteurs, des choses dans le plan. Ce n’est pas parce qu’on bouge la caméra qu’il y a du mouvement. Donc, voilà, j’ai arrêté de bouger et me suis posé [avec ma caméra]. Parce qu’à force de tourner, tourner, je me suis dit que c’était mieux pour moi. Je suis un peu d’une autre famille.

––Dans le film, on apprend petit à petit que le mari d’Edith était probablement engagé dans les actions politiques et mort dans le camp de concentration de Tarrafal, que l’infirmière Amalia a été cuisinière là-bas et aurait aidé clandestinement la communication entre Edith et son mari. La scène de danse en pleine nuit sur le toit de ces deux personnages est très émouvante, d’autant plus qu’on entend « Juventude em Marcha », signe de complicité entre les deux femmes. Voulez-vous parler un petit peu plus sur Tarrafal et ce qu’il implique dans ce film ?

Alors, cette prison de Tarrafal, c’est un camp de concentration, une conception nazie. C’est un des premiers camps de concentration au monde, c’était portugais. Et comme ça il était sur l’île où on tournait, abandonné mais il était là, pour moi, c’était impossible de passer à côté. J’ai tourné un film dans cette île qui n’est pas très grande. Par ailleurs, quand j’étais jeune, j’étais––je le suis encore un peu––très, très, très radical, très à gauche. Donc ça me semblait impossible de ne pas parler de ça. Voilà, j’ai un peu inventé cette histoire d’une femme, une veuve d’un prisonnier, orphelin d’un prisonnier, comme un petit hommage à tous les résistants portugais qui sont morts là-bas.

*

Je regrette un peu de ne pas avoir pu parler, par manque du temps, de la forte présence de la musique dans Casa de Lava. Au début du film, après la vision de plusieurs images de paysages volcaniques cap-verdiens, commence brusquement la violente mélodie du quatrième mouvement de Sonate pour alto seul, Op.25-1, de Paul Hindemith (vous trouverez ici un enregistrement de 1934 par le compositeur). Indiquée au début de la partition « Mesure enragée, sauvage. La beauté sonore est secondaire », cette pièce « punk » est fréquemment citée par Jean-Luc Godard dans sa Nouvelle Vague (1990) et ses Histoire(s) du cinéma (1988-98), dont Pedro Costa a reconnu après coup la coïncidence. Par ailleurs, il arrive que cet entretien a coïncidé avec la veille du 89ème anniversaire de Godard. Au repas du soir, il y eut un moment inoubliable où Pedro Costa commençait à être impatient à l’approche du minuit, puis il proposa un toast à Godard dès qu’on fut le 3 décembre (bien que nous étions à l’heure japonaise).

(transcription : Junji Hori et Anthony Lieven)


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Portrait de Pedro Costa déguisé en Antoine Doinel tel qu’il apparaît dans l’affiche japonaise des Quatre cents coups (1959). photo: Kazuhito Matsumoto

*1:1980年代初頭からのパウロ・ブランコの活動については、2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集「Double Shadows/二重の影 2――映画と生の交差する場所」で上映されたボリス・ニコ『パウロ・ブランコに会いたい』Deux, trois fois Branco (2018)が参考になる。

*2:ペドロ・コスタ『Casa de Lava――『溶岩の家』スクラップ・ブック』シネマトリックス、2010年。本書は版元品切れだが、リスボンの出版社から刊行された版(Casa de Lava: Caderno, Pierre von Kleist editions, 2013)は2020年1月現在も入手できる。

ゴダールの『イメージの本』覚書(1) イントロダクション

 以下に掲載するのは、ラジオ関西の30分の番組「シネマキネマ」で2019年4月27日27時から放送された内容のうち、わたしが語った部分の書き起こしである(一部、補足した箇所もある)。

 全体がゴダールの新作紹介にあてられたこの回では、『イメージの本』の全体像を大づかみに理解できるようなイントロダクション的な内容を目指したつもりである。

 取材時にわたしがたどたどしく語った内容は、番組ディレクターの吉野大地氏の「手」によって巧みな編集を施されており、さも淀みなく語り下ろした格好になっている(ゴダールに倣って、切り貼りした「手」の触感が残るような、ざらついた編集にあえてしたという!)。また、実際の番組では、採録部分に先だってナヴィゲーターの山本せりか氏による導入があり、セクション毎にも的確な合いの手が差し挟まれている。両氏には最大限の感謝を捧げたい。番組のご厚意で、ここでは割愛したナレーション部分を含むポッドキャスト版を特別に作っていただいたので、ぜひ改めてお聞きいただきたい。

 なお、昨年、『イメージの本』の本篇の公開前に予告篇だけを見て書いた本ブログの記事「ゴダール新作『イメージの本(Le Livre d'image)』予告篇についての覚書」もある。また、今回ラジオで語った内容をさらに発展させた『イメージの本』論を、批評誌『ヱクリヲ』10号に「ピクチャレスク・ゴダール――『イメージの本』における「絵本」の論理」として寄稿している。これらも併せてお読みいただければ幸いである。

ヱクリヲ vol.10 特集I 一〇年代ポピュラー文化――「作者」と「キャラクター」のはざまで 特集II A24 インディペンデント映画スタジオの最先端

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「手で考える」

 『イメージの本』(2018)の冒頭ではゴダール自身のナレーションで、次のようなことが語られます。「5本の指があって、指が合わさると手ができて、そして人間の真の条件とは手で考えることだ」という、少し謎めいたナレーションからこの映画が始まるんですね。手で考えるとはどういうことなのか、それは端的に言えば編集するということです。実際の映画の冒頭部分がどういう映像の連なりになっているのかというと、まず映画のメインビジュアルでもあるダ・ヴィンチが描く《洗礼者ヨハネ》の天を指し示す指が出てきて、次いでフィルム片をモンタージュする手が出てきます――これはゴダール自身の『リア王』(1987)からの引用で、手の主は実はゴダールではなくてウッディ・アレンなんですけれども――。それから、様々な映画から手の映像が引用されて連なっていきます。ジャコメッティの彫刻の手なんかも出てくる。こういう風に既存の映像の断片を編集することで、このプロローグ部分のみならず映画のほぼ全体が出来上がってる。そういう意味で、『イメージの本』は「手で考える」ことを徹底した編集の映画だとまずは言えると思います。

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 ゴダールは、1998年に完成した『映画史』(1988-98)でも似たような映像のコラージュを行っていました。『映画史』完成後、ゴダールは再び物語を撮るようになって、たとえば『愛の世紀』(2001)でも、『アワーミュージック』(2004)でも、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)でも、前作の『さらば、愛の言葉よ』(2014)でも、俳優を使った物語がある程度は展開されていました。今回はそういった物語的な要素がほとんどなく、いわば『映画史』に回帰したようなかたちで、映像のコラージュだけによって映画全篇が作られています。『映画史』に比べると、映像のコラージュの密度はよりシンプルになっていると同時に、かえって力強いものにもなっているように思います。

「5+1」という作品の構造

 『イメージの本』は映像のコラージュだけで成り立っていますので、映画の構造を把握することが見るときには重要です。5本の指ということでこの『イメージの本』は5章構成だと思われがちですし、私自身もずっとそう考えてきたんですけれども、いま申し上げたようにゴダールは「5本の指があり、指が合わさると手がある」と言っていますので、実は「5+1」の6セクションから成っているんじゃないかと思います*1

 上映時間としては5本の指を合わせた5つの最初のセクションで前半が構成され、残りの「手」の部分である6番目のセクションでだいたい後半が構成されています。『イメージの本』の上映時間は84分ぐらいですので、5本の指の部分でだいたい40分強、それから手の部分で同じく40分強あるということになります。

 各セクションの主題を簡単に紹介すると、5本の指の一本目は「1 リメイク」と題されていて、映画史が広い意味でのリメイクの連鎖で成り立っていて、現実世界もまた映画のリメイクで成り立っているという仮説が提示されます。

 2番目のセクションは「2 ペテルブルク夜話」と題されていまして、ここでの主題はひと言で言うと戦争です。19世紀初頭にカトリックの思想家で反革命の立場をとっていたジョゼフ・ド・メーストルという人がいるんですけれども、この人が書いた『サン・ペテルスブルグの夜話』(1821年刊行)という本がタイトルの由来になっていて、ゴダールはその本の中からド・メーストルが展開する特異な戦争論を引用しています。

 第三セクションのテーマは列車です。ここでは様々な映画からの列車のイメージが自由連想に従って繋ぎ合わせされています。ドイツの詩人リルケから取られた、「3 線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」という少し詩的なタイトルが付けられてます。

 4番目のセクションはモンテスキューに由来する「4 法の精神」というタイトルです。ここでは、「法」というやや抽象的な概念をめぐる様々な映像の断片が繋ぎ合わされていて、全体としては「法」についての思考が映像のコラージュを通じて展開されています。

 5番目のセクションは「5 中央地帯」。これはマイケル・スノウが1971年に撮った伝説的な実験映画からそのままタイトルを取っています。実際、『中央地帯』からの抜粋も最初に出てきますが、ここではソ連のアレクサンドル・ドヴジェンコの『大地』(1930)から、主人公とその許嫁の非常にフォトジェニックな映像が出てきて、このセクションは数分で終わるものと考えられます。

 後半を占める6番目のセクション、「手」としてのセクションの主題は「アラビア」で、「幸福のアラビア」という字幕も出てくるのでそれがタイトルであると考えられます。エジプト出身のフランス語の作家アルベール・コスリーの小説『砂漠の中の野望』が長く朗読されるなか、中近東の映画からの多数の引用でもって、アラビアをめぐる一種の映像詩のようなものが展開されるセクションになっています。

1. リメイク

 ゴダールは、「リメイク」と「韻を踏むこと」を結びつけています。フランス語で押韻のことをリーム(rime)というわけですが、リメイクとリームを合わせた「RIM(AK)ES」という文字列が第一セクションの途中で出てきます。そのような形で韻を踏むような映像を連想によって繋げていくのがこのセクションのみならず『イメージの本』全体を貫く主たるロジックと言えるでしょう。

 このセクションでは、たとえば複数の映画の似たシチュエーションのシーンを結びつける事例もたくさん出てきます。ニコラス・レイの『大砂塵』(1954)の有名なシーンの後にゴダール自身の『小さな兵隊』(1960)の少し似たシチュエーションが出てくる。あるいは、ロベルト・ジオドマーク/エドガー・G・ウルマーの『日曜日の人々』(1930)とジャック・ロジエが撮った短編の『ブルー・ジーンズ』(1958)がシチュエーションの類似性を介して続けて出てきたりします。こういう繋ぎは、通常の意味でのリメイクに近い事例だと思います。

 さらに単なる連想に近い繋ぎも、このセクションにはたくさん出てきます。一番目覚ましいのは、水のモチーフを介して、ヒッチコックの『めまい』(1958)とか、フランク・ボーゼーギの『河』(The River, 1929)とか、ジャン・ヴィゴの『アタラント号』(1934)のシーンが連鎖していく箇所でしょう。

 しかし、おそらく一番刺激的なのは、現実とフィクションをまたいで何らかの押韻、ないし何らかのリメイクがなされている箇所だと思います。たとえば、セクションの冒頭に原水爆実験の映像が出てくるわけですけれども、それがロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』(1955)のラストシーンにおける忘れがたい爆発と結びつけられる。あるいは、ロッセリーニの『戦火のかなた』(1946)でパルチザンポー川に突き落とされるシーンに続いて、現在のいわゆるイスラム国の処刑のシーンが続く箇所などがそれに当たるでしょう。

2. ペテルブルク夜話

 このセクションで中心的に取り上げられるジョゼフ・ド・メーストルは、フランス革命の時代のカトリックの思想家で、しかも強烈に反革命の立場を取っていた人です。1802年から17年までサルデーニャ王国の外交官のような立場で当時のロシアの首都であるサンクトペテルブルクに派遣されていた人物なんですね。

 これまでのゴダールでド・メーストルが引かれたことはおそらくなかったと思いますし、さらに言えばなぜド・メーストルが突然出てくるのか、不思議に思う方も多いと思います。私の考えでは、たぶんトルストイを経由してド・メーストルに行き着いたのではないかと思っています。ゴダールは、『アンナ・カレーニナ』(1873-77)とか『戦争と平和』(1864-69)といった小説をおそらく好んでいて、よく話題に出しますし、トルストイの時代にはド・メーストルは結構読まれていて、実際、彼が『戦争と平和』を執筆していた時にも、かなりしっかりとド・メーストルの本を読み込んでいたと伝えられています。ですから、トルストイを経由してド・メーストルという新たな思想家が出てきたのではないかと思います。実際、このセクションの映像は、セルゲイ・ボンダルチュクの超大作映画『戦争と平和』(1965-67)からいくつかのシーンが引用されることによって始まっています。

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 このセクションでは、ド・メーストルが『サン・ペテルスブルグの夜話』*2で展開する特異な戦争論が、彼の肖像画なんかも出されながら、比較的丁寧に紹介されていきます。ド・メーストルは、人間を含めた生き物は不可避的に殺戮を行っている、つまり食べるために動物を殺すようなことをどんな生き物も行っている、したがって、大地全体が殺戮の巨大な祭壇であると捉えていて、戦争という行為も世界の法則そのものであるがゆえに神的なものであると考えていました。そのド・メーストルの考えを絵解きするような数々の災厄の映像が、このセクションでは多々引用されていくことになります。アンドレ・マルローの『希望』(1938-39)であるとか、ロッセリーニの『無防備都市』(1945)といった映画も引用されますし、溝口健二の『雨月物語』(1953)で水戸光子が暴行されるシーンもこのセクションに出てきます。

 振り返ってみると、『アワーミュージック』の冒頭の10分ぐらいのセクション《地獄篇》も、災厄の映像をたくさんコラージュしたセクションでした。『イメージの本』のこのセクションは、その『アワーミュージック』の冒頭の10分を引き継ぎつつ、そこにド・メーストルという特異な思想家の言説を追加したものと捉えられるでしょう。

3. 線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて

 このセクションは、列車が出てくる様々な映画からの引用がまさに自由連想によって連なっていく、とても楽しいセクションです。最初の方にジャック・ターナーの『ベルリン特急』(1948)が出てきて、非常に印象的な横移動で登場人物が紹介されていくシーンも出てきますし、映画史の様々な局面から多数の映画が引用されています。日本ではマイナーかもしれませんが、ドキュメンタリー映画の古典的傑作と言われているヴィクトル・トゥーリンの『トゥルクシブ』(Turksib, 1929)という映画があって、このトルキスタンシベリア鉄道の敷設の模様を描いたドキュメンタリー映画も何箇所かにわたって引用されています。他にも自作からはたとえば『フォーエヴァー・モーツアルト』(1996)の列車のシーンが出てきたり、おそらくゴダールが初めて引用したテオ・アンゲロプロスからは、『霧の中の風景』(1988)で幼い姉と弟が列車に乗り込もうとするシーンが引かれます。ストローブ=ユイレの『シチリア!』(1999)も引かれますし、セクションを締め括るのはマックス・オフュルスの『快楽』(1952)で、都会に戻っていくダニエル・ダリュージャン・ギャバンが見送るシーンが、非常に壮麗な移動撮影によって捉えられています。

 ウィリアム・ウェルマンの1930年代のプレ・コード期の佳作『家なき少年群』(1933)からは、主人公の友人が列車に轢かれて足を切断する羽目になるというちょっと不吉なシーンも出てくるんですが、全体としては列車が映画にもたらす運動感への幸福なオマージュが捧げられているセクションだと思います。

 このセクションの大きな特徴としてはもう二つほど挙げられると思うんですけれども、一つは実験映画が多く含まれているということです。ここで引かれている実験映画は、おそらく本作の協力者の一人である映画研究者ニコル・ブルネーズがもたらしたものだと思われ、セクションの冒頭ではアル・ラズティスというカナダの実験映画作家リュミエール兄弟の『列車の到着』をいわばより迫力があるような形に改作した『リュミエールの列車』(Lumière's Train, 1979)という映画が引かれています。ちなみに、それに先立ってホームにいる女の子が到着する列車を見て驚くショットが差し挟まれていますので(後にこのホームビデオからの映像だと知った)、これはリュミエール兄弟の『列車の到着』を見た当時の観客が、現実の列車と取り違えて思わず逃げ出したという有名な神話を踏まえているのでしょう。またセクションの最後の方では、イームズ夫妻の『おもちゃの汽車のトッカータ』(1957)とかジャック・ペルコントというフランスの若手の実験映画作家の『火の後』(Après le feu, 2010)という映画も引かれています。この『火の後』は、列車の先頭から捉えた映像が次第にサイケデリックな色調に変化していくという実験映画なんですけれども、列車がもたらす知覚の変容――そもそも列車が登場したときに、人々は列車がもたらす知覚に驚いたわけですが――を現代風に再び考察したもののようにも思われます。ゴダールが実験映画を引用することはこれまであまりなかったんですけれども、他の古典的な映画と違和感なくうまく溶け込んでいる印象を持ちました。

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 もう一つの特徴としては、アウシュヴィッツの不在が挙げられると思います。少なくとも、『映画史』以降のゴダールにとって、列車とはアウシュヴィッツに向かう列車のメタファーという役割を往々にして担っていました。『映画史』では間違いなくそうでしたし、『愛の世紀』ではパリ郊外のドランシーにある路面電車の駅が出てくるんですけれども、ドランシーはフランスからアウシュヴィッツに移送される人々が一時的に収容される収容所があった場所で、要するに収容所の記憶とドランシーという地名が結び付けられていたわけです。そうしたアウシュヴィッツのメタファーとしての列車のモチーフがこのセクションでまったく見られないのは非常に興味深いことです。
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4. 法の精神

 このセクションは、私の考えでは第二セクションと対になっているものです。ジョゼフ・ド・メーストルが戦争を「世界の法則」とみなしたのに対して、ここでゴダールモンテスキューを梃子にして、別種の「法」がありうるのではないか、という考察を試みているのだと思います。つまり、世界の悲惨さをただ是認するような「法則」ではなく、暴力を制御するものとしての「法」を新たに制定することに関心が寄せられているのではないか。

 だからこそこのセクションでは、様々な次元の「法」にまつわる映像のコラージュが展開されるなかで、特に「革命」の契機に重点が置かれています。「革命」とは、それまでの「法」を廃棄して、新たな「法」を作り上げるという出来事でもあるからです。実際、このセクションは1871年パリ・コミューンを疑似ドキュメンタリー的に再構築したピーター・ワトキンスの映画『ラ・コミューン(パリ、1871年)』(La Commune (Paris, 1871), 2000)で始まり、後半ではテレビ映画から取られたロベスピエールの演説が登場する。ほかにも、たとえば反マクロン・デモの様子をとらえたニュース映像や、ソ連の反体制的な歌手ウラジーミル・ヴィソツキーがしゃがれ声で歌う《オオカミ狩り》といった要素も、「革命」とまでは言えないものの、既存の「法」の支配から逃れようとする動きを表していると解釈できます。

 以上を踏まえますと、このセクションで最も印象的な引用は、ジョン・フォードの『若き日のリンカーン』(1939)ではないかと思います。ヘンリー・フォンダ演じる若きエイブラハムは、通りすがりの一家から樽に入った書物一式を譲り受けて、その中にたまたま入っていた法律書に興味を惹かれ、ゼロから「法」を発見していくことになる。ゴダールがここでやろうとしているのも、まさに同じこと、つまり「法」の別のあり方をゼロから探っていくことであるように思われます。

5. 中央地帯

 ゴダールによれば、このセクションのテーマは「男女間の愛」ということになっています。これは非常に意外な感じがします。というのも、セクションの冒頭で引かれるマイケル・スノウの実験映画は、男女間の愛とは何の関係もないからです。しかし、ゴダールはどうやら本気で、「愛」(ここでの「愛」は異性愛に限られるのですが)こそが人間にとっての「中央地帯」であると考えているふしがあります。

 実際、ゴダールのフィルモグラフィを振り返ってみますと、彼にはベタな意味でリリカルな側面があると思います。長篇第一作の『勝手にしやがれ』(1959)にしても、1980年代の傑作『カルメンという名の女』(1983)にしても、ストーリーとしては男女の愛の不可能性がテーマになっているわけです。

 『イメージの本』のこのセクションの中心を占めているドヴジェンコの『大地』のカップルも、実は同じテーマに連なっています。というのも、ここで引かれているのは主人公の男とその腕の中にいる許嫁を交互に捉えたフォトジェニックな映像ですが、元々の『大地』のストーリーでは、このカップルの男の方は、すぐ後のシーンで何者かに射殺され、女の方はそれが原因で気が狂ってしまいます。こうしたストーリー展開を踏まえれば、これは成就することのない愛なわけです。

 もう一つ、この『大地』のカップルが、『イメージの本』の中では上映時間にしてちょうどほぼ真ん中に位置していて、いわば本作の「中央地帯」を占めていることも付け加えておきたいと思います。

幸福なアラビア

 これまでのゴダールにおいて、アラブといえばパレスチナのことでした。ゴダールは1970年にパレスチナで映画を撮ろうとして以来――その映画は困難な編集過程を経て、およそ5年後に『ヒア&ゼア』という重要作として結実する――、今に至るまでずっと親パレスチナ的で反シオニズム的な立場を取っており、そのせいで時おり反ユダヤ主義者という言いがかりをつけられてもいる人なんですね。

 ところが、『イメージの本』では、わずかに『ヒア&ゼア』(1974)からマフムード・ダルウィーシュの詩を朗読する少女の声が引かれるくらいで、それを除けばパレスチナはほとんど出てこない。

 では、この作品のアラビアとは何なのか、ということですけれども、ひと言で言えば、劇中に何度も引用されるパゾリーニの『アラビアン・ナイト』(1974)のようなアラビアなのではないかという気がします(以下の写真は、同作品よりの数々の引用)。つまり、「千夜一夜物語」的な、いわばお伽のようなアラビア、さらに言えば、現実から遊離した「幻想のアラビア」が形作られているのではないか、という気がするんですね。

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 といいますのも、確かにこのセクションではオーセンティックな、チュニジアをはじめとするマグレブの映画も引かれていますし――たとえば、ナーセル・ヘミールの作品は幾つも引かれています――、エジプトのユーセフ・シャヒーンも引かれ、シリアの巨匠と言われるモハマッド・マラスの作品も引かれている。でも、それと同時に、アラビア世界を舞台にした西洋の映画も引かれていて、それらが混ぜ合わせられているわけです。そうした意味で、オーセンティックなアラビア映画を引いてはいるものの、ゴダールが表象するアラビアがどうしても「幻想のアラビア」のように見えてしまうということがあると思います。

 ゴダールはこのセクションの中で、エドワード・サイードを引用しています。サイードはかつて『オリエンタリズム』で、西洋がイスラム世界を中心とする非西洋に誤解に満ちた眼差しを投げかけていることを批判したわけです。しかし、ここでのゴダールのアラブ世界の扱いは、サイードが批判したオリエンタリズム的な視線を免れていないのではないか、という気もします。

 とはいえ、ゴダールが『イメージの本』のために、比較的新しい中近東の映画を大量に見て、それをみずからのコーパスに取り入れようとしたことは間違いありません。かつてゴダールが20世紀末に仕上げた『映画史』には、ゴダール以降の映画はほとんど出てこないことで批判されもしましたが、それに比べると、80歳代後半のゴダールがここからさらに新たなスタートを切ろうとしていることには感銘を受けざるをえません。

*1:以下にみるように、5本の指に相当するセクションには番号が振られ、「手」としてのセクションには番号が振られていないので、本作を5部からなると考える方がむしろ自然である。しかし、本作の密接な協力者であるファブリス・アラーニョも、ニコル・ブルネーズも、本作は6セクションからなると明言している(それぞれのリンク先の動画を参照)。

*2:原書は、フランス国立図書館のGallicaで各版が閲覧可能(https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6537390v)。半世紀前の邦訳(https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA45365265)は入手困難だが、国立国会図書館デジタルコレクションで、図書館向けデジタル化資料送信サービスが利用できる(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1708159)。

ロラン・バルトの未邦訳の映画論

 ロラン・バルトと映画の関係については、日本では『ロラン・バルト映画論集 (ちくま学芸文庫)』や『映像の修辞学 (ちくま学芸文庫)』といった独自のアンソロジーによって、比較的よく知られていると思う。『戦艦ポチョムキン』のスチル写真を論じた「第三の意味」や、ユニークな映画館論である「映画館を出て」といったテクストを白眉とする彼の量的にさほど多くはない映画・映像論も、そのほとんどが邦訳されている。

 だが、管見の限り一篇だけ、未邦訳にとどまっているばかりか、仏語版の全集に収められてすらいないテクストがあり、ここでその試訳をお目にかける。これはマリオ・ルスポリ(1925-86)監督がロゼール県の農民たちを被写体にして撮った『大地を耕す無名の人々』Les Inconnus de la terre (1961)をめぐる寸評である(ただし、これは文字通りの寸評であり、これを読んでバルトの映画観が更新されるといった類いのものではないことをお断りしておく)。

 このイタリア出身のドキュメンタリー作家は、クリス・マルケルと共同製作した捕鯨についての作品『鯨ばんざい』Vive la baleine (1972)で最もよく知られているだろう(この短篇は、ここで視聴できる)。なおマルケルは、ルスポリの最初の短篇『鯨の人々』Les hommes de la baleine (1956)にもコメンタリーを提供している。

 ルスポリは、『狂気についての眼差し』Regard sur la folie (1962)で、初めて精神病院の中にカメラを持ち込んだとも言われており(たしかにフレデリック・ワイズマンの『チチカット・フォーリーズ』にも5年先駆けている)、ジャン・ルーシュ、ミシェル・ブロー、ピエール・ペローなどと並んで、いわゆる「シネマ・ヴェリテ」の重要な担い手と目されている。その全貌は、フランスでは以下のDVDで手軽に確かめることができる。

 バルトによるこの短評の存在は、フィリップ・ワッツの遺稿に基づいて編まれた好著Le cinéma de Roland Barthes : Suivi d'un entretien avec Jacques Rancièreに「付録」として再録されているのを読んで知った(本書には、英語版Roland Barthes' Cinema (English Edition)もある)。初出は、映画公開時にアルゴス・フィルムが作成した冊子であるそうだが、わたしが確認できたのは、『Artsept』誌の「映画と真実」特集号への再録である(Artsept, nº 2, avril/juin 1963, p.76)。該当ページの写しを本エントリー末尾に掲げておく。ちなみに本誌は、まだ20代だったレーモン・ベルールが1963年にリヨンで創刊した雑誌で(3号で終刊)、この第2号はヴェルトフ、イヴェンスに始まり、ロバート・ドリュー、リーコック、フリー・シネマ、ルーシュ、ルスポリ、マルケルなどを取り上げている。

 

マリオ・ルスポリ『大地を耕す無名の人々』への序言

堀潤之訳

 

 貧農について語るのは容易なことではない。彼らは誠実すぎて物語の主人公にはなれないし、そうは言っても地主なので、プロレタリアートとしての政治的威信も持っていない。彼らは神話的なまでに恵まれない階級なのである。

 この報いるところの少ない、厄介な主題について、マリオ・ルスポリは、ミシェル・ブローとジャン・ラヴェルの助力を得て、公正な映画を作ることができた。啓発的にして魅惑的な映画である。彼の映画は、現実に行われた調査である。というのも、ルスポリは農民たちに語らせており、彼らの直接的で具体的な言語を通じて、今日のフランスにおいて農民が抱えている一般的な諸問題が指摘されるからだ――つまり、収入の乏しさ、技術の遅れ、若者と老人の対立、集団と個人の衝突、生活条件の改善への要求と結びついた自由への要求。私たちの目前で、階級意識が芽生え、みずからを語るのである。

 しかしながら、この公正な映画は、主題の誘惑にもかかわらず、陰鬱な映画ではない。ある味わい、熱烈さ、明晰さが、映像、事物、台詞を通じて行き交っており、相互的な信頼が、カメラと人物や風景の間、質問する側と質問される側の間に生き生きとした震えをもたらしている。私たちがここで何も見世物であるとは感じず、これら真実の映像を信頼と悦びと有益さをもって眺めるのは、おそらくそのためである。

 

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