les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ペドロ・コスタ監督のトーク採録(出町座)/Entretien avec Pedro Costa (à Demachi-za, Kyoto)

 出町座で2019年12月2日(月)に『溶岩の家』Casa de Lava (1994)の特別上映後に行われたペドロ・コスタ監督のトーク(わたしが聞き手・通訳を務めて、フランス語で行われた)を以下に採録する。なお、このトークの大部分は、ラジオ関西の映画情報番組「シネマキネマ」(2020年1月4日深夜の回)でもオンエアされた。

 本ブログでの公開を快諾してくださったペドロ・コスタ監督、京都への監督の招聘にご尽力されたヴュッター公園の田村尚子氏と西原多朱氏、監督の長篇第一作『血』O Sangue (1989)と第二作『溶岩の家』の緊急特別上映&トークを魔法のように実現させた出町座の田中誠一氏、そしてトークの音源を提供してくださった「シネマキネマ」の吉野大地氏にこの場を借りて御礼申し上げる。

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出町座を来訪するペドロ・コスタ監督 photo: Naoko Tamura

――『溶岩の家』を撮るにあたって、ポルトガルを離れてカーボヴェルデに赴くという考えはどこから来たのでしょうか。

 こんばんは[日本語で]。当時は政治的に状況が複雑で、ポルトガルの居心地があまりよくありませんでした。そこで、どこか別の場所に行こうと思い立ち、パウロ・ブランコというプロデューサーを見つけ、彼にカーボヴェルデのフォゴ島に行く旅費を出してもらうよう頼みました。ジャック・ターナーの『私はゾンビと歩いた』I Walked with a Zombie (1943)のリメイクを作るというアイデアがあったからです。

――この『溶岩の家』と続く『骨』Ossos (1997)は、いま言及なさったパウロ・ブランコによって製作されました。彼は日本でも伝説的なプロデューサーとして有名です。当時、彼とはどのような関係でしたか。

 私はリスボンで映画学校に通ったのですが、2年でやめてしまいました。2年目が終わるとき、クラスメートの友人に、ある映画の助手として働く気がないか尋ねられ、ほんのちっぽけな仕事でしたが「やる」と言って、学校をやめました。助手としていろいろな映画で本腰を入れて仕事をし始めたからです。それがパウロ・ブランコ製作の映画でした。
 当時、彼はたくさんの映画を製作し始めた時期でした。オリヴェイラヴェンダースラウール・ルイス、アラン・タネール、ヴェルナー・シュレーター等の映画です*1。いくつかの映画で助手を務めました。こうして付き合いが始まり、第一作の『血』を撮った後、電話で連絡をもらいました。『血』がとても気に入った、プロデューサーが必要なら私がやろう、と。私は、分かりました、それならカーボヴェルデに行きたいです、と言いました。
 パウロ・ブランコとの関係については、彼が日本でどう思われているか分かりませんが、ヨーロッパでは非常に知的で、映画好きの人物、起業家にして、海賊、ギャングと思われています。ですが、私と彼との関係はつねに良好で、非常に真摯で誠実なものでした。そして『溶岩の家』の体験があり、それもうまくいったので、一緒にもう一本の映画――『骨』――を作ることにしました。そういうわけで、当時についてはよい思い出を持っています。リスボンで彼によく会うのですが、今では会うたびにこう言われます。ああ、もう誰もしゃべる相手がいない、みんな死んでしまった。セルジュ・ダネーも、シャンタル・アケルマンも。私はたった一人だ、と。
 [ここまでの通訳を終えた後に]ところで、二つ言いたいことがあるのですが、まずここはとても綺麗な映画館ですね。それから、[いまこうしてビールを飲んでいますが]私はアル中ではありません(笑)――今のところはね(笑)。

――第一作の『血』は、おそらく無意識的なものも含めて、シネフィル的な参照に溢れていて、まるで映画の世界の海に浸っているような映画でした。『溶岩の家』を見ても、ただちにいくつかの映画が思い浮かびます――先ほど挙げられたターナーの『私はゾンビと歩いた』、ロッセリーニの『ストロンボリ』Stromboli (1950)、そしてエディット・スコブを介してジョルジュ・フランジュの『顔のない眼』Les Yeux sans visage (1959)などです。こうした参照は意図的なものでしたか。映画史に対する態度という点で、最初の二作の間に違いはありましたか。

 第一作は、私が好きだったたくさんの映画に由来しています。特にニコラス・レイの作品群、アメリカのフィルムノワールの無数の作品――そうしたものが好きでしたし、それは今でも変わりません。つまり、1930年代から50年代にかけての古典的映画です。
 『血』は夜の映画で、非常にロマンティックでもあります。私は当時、映画館の中で暮らしていたも同然でした。そのため第一作は、ニコラス・レイムルナウフリッツ・ラング等の世界から出てきたような、そうした世界に取り憑かれ、棲み着かれたものになっています。
 『溶岩の家』ではそれが少し変化し、参照がより少なくなったと言えるでしょう。しかしながら、たとえば火山が出てくる映画を、ロッセリーニに思いを至らせずに撮ることなど誰にもできませんし、同様に、誰も宗教についての映画を、ブレッソンのことを考えずに撮ることはできません。
 『溶岩の家』は、自分が本当に好きなものは何か、私にしか作れない映画をどうすれば作れるのか、真剣に考え始めた映画でした。そのため、他の映画のことをあまり考えなくなったのです。おそらく、遠く離れたところ、何もなく、電気もほとんど通っていない島に滞在するという、ラディカルな体験をしていたことも理由の一つでしょう。自分が少し変わらなければならない、自分の人生で何かを変えなければならない、と私に強く考えさせた映画でした。この映画が私に教え、告げてくれたのは、自分が風景やフィクションをあまり好んでおらず、むしろ家や部屋が好きで、自分が現実の人々、現実の生活、要するにドキュメンタリー的なものの傍らにいる、ということでした。

――ここに『溶岩の家』の準備段階で作られたノート、通称「スクラップ・ブック」があります*2。これは写真(特に女性の肖像)、絵画、新聞の切り抜き、シナリオの断片等がコラージュされたものです。これぞまさしく、ゴダール的な意味での「イメージの本」なのではないかと言いたくなります。このノートは、シナリオ(脚本)を準備するのとは別に作られたのですか。撮影中、このノートが持ち得た役割や機能は何でしたか。

 たしかにこのノートは、ジャン゠リュック・ゴダールの実践にとても近しいものです。ゴダールはつねにこうしたことを自分の映画だけでなく、「シナリオ」でも行ってきました。彼の脚本はつねに、糊で貼られたイメージや切り抜きで出来ています。そういうわけで、このノートはゴダールに由来するものですが、彼もまた、彼にとって非常に重要なある人物、私に言わせればあらゆる映画作家にとってかなり重要な数々の本を書いた人物の真似をしたのです。その人物とはアンドレ・マルローで、とりわけ『沈黙の声』や『想像の美術館』という本を書いた人物です。マルローの考え――ゴダールはいつものようにその真似をしたのですが――は、あらゆるものを一緒くたにできる、ということです。北斎マン・レイミケランジェロとジャン゠マリ・ストローブ、ピカソと人類最初の素描であるラスコーの洞窟、というように。芸術には過去も未来もなく、現在だけがある。偉大な映画や偉大な絵画はつねに今日のものなのです。古い映画などというものはなく、今日の映画だけがある。ちょうどピカソの絵を見に行くとき、それが今日のものであるように。そうした考えです。

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「スクラップ・ブック」とゴダールの『パッション』準備稿
 私はこの緑のノートを手にしていました。これは学習用ノートで、日本製ではないかと思っています。表紙にあるのが日本のメーカーのマークなのではないかと。分かりませんが。たしかリスボンで購入して、カーボヴェルデに持ち込み、そこで絵葉書や何やらを貼り付け始めました。これは私の秘密のノートで、つねに自室にあり、鞄の中に入れていました。このノートは、シナリオ(脚本)とは別のものでした。当時、私はまだ古典的なシナリオ、100頁くらいの台詞のあるシナリオを書いていました。リュックサックに入っているノートは、シナリオとは別物でしたが、私はこのノートの方を真の「シナリオ」とみなしていました。こういうものをこそ作りたかったのです。
 こういう「シナリオ」によってお金を得ることができればとても良いと思います。単に自分のためだけでなく――というのも、これはとても優れた仕事道具で、自分が何をしたいか正確に分かるようになる、つまりイメージこそがアイデアをもたらしてくれるという意味で、まさに「イメージの本」なのですが――、どんな映画作家でも、若い映画作家でも、こうした「本」や「シナリオ」を作って、プロデューサーや財団に渡し、それを元にして多少の製作費を受け取れるような世界に暮らしたいと思っています。それが不可能なのは、人々が書かれたもの、言葉、台詞を望むからです。プロデューサーたちがイメージをまったく望んでいないのは残念なことです。

――『溶岩の家』から、非職業俳優を使い始めますね。カーボヴェルデの人々はみな、島の住人と思われます。ティナやタノ、アマリア、そしてマリアナにサンダルを売る市場の女性といった主要人物をどのように選んだのですか。

 たしかに、当時すでに職業的な俳優たちに対して、嫌悪感とまでは言いませんが、警戒心を抱いていました。職業的な俳優たちには、どこかあまり好きになれないところがあったのです。アマチュア俳優、俳優ならぬ俳優たちを選んだのは、職業的な俳優に最も抵抗できるのはどんな人たちだろうか、職業的な俳優に真の怖れを抱かせることができるのはどんな人たちだろうかと考えたからです。たとえば、少年のタノ、少女、アマリアといった、私が出会った人々はみな、非常に強いものをもっていて、私が連れてきた職業的な俳優たちに抵抗しうるようにみえました。
 私は、非職業俳優が仮借のない、岩のような人物であって欲しいと思っていました。なにしろ「溶岩」や「火山」の映画なのですから。私が望んでいたのは、物静かで、仮借なく、容易に入り込めず、つねに「ノン」と言いうる人たちです。

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左より、『溶岩の家』のティナ、アマリア、サンダルを売る市場の女性

――『溶岩の家』で特徴的だと思われるのは、ポルトガル語クレオール語の混ざり合いです。ポルトガル語を解さない人には、両者を聞き分けるのは難しいですが、台詞をたどると、エディットはポルトガル語を忘却し、クレオール語しか喋らなくなった人物であること、マリアナはゆっくり喋ってもらえばクレオール語を理解できること等が分かります。ポルトガル人として、クレオール語にどのような感覚を抱いていますか。また、イザック・ド・バンコレ、エディット・スコブ、ペドロ・エストネスといった職業的な俳優たちにクレオール語を喋らせる際に困難はありませんでしたか。

 ポルトガル語とのクレオールだけでなく、あらゆるクレオール語には、抵抗の言語でもあるという側面があります。主にアフリカ諸国やラテンアメリカ諸国で、ポルトガル、スペイン、フランス、イギリス等のあらゆる植民者たちが、自分たちの言語を押し付けたのです。ですから、カーボヴェルデで喋る言葉、マリアナが出会うことになる言葉は、ポルトガル語ではなく、現地の言葉でなければなりませんでした。俳優たちはみな、言葉を学ばなければならず、実際にそうしました。その過程では、人となりがなにがしか出るものです。エディット・スコブは瞬く間にクレオール語を習得し、村の人たち同様に喋っていて、信じられないくらいでしたが、イザック・ド・バンコレは決してクレオール語をうまく喋れるようにはなりませんでした。彼は抵抗し、望まなかった。エディット・スコブは島に入り込み、その一部となることを強く望んでいましたが、イザックはなぜだか分かりませんが――たぶん彼自身アフリカ系で、しかも非常にパリ的なアフリカ系だからかもしれません――抵抗を示し、決してしかるべくクレオール語を習得しませんでした。ともかく、そういう事情だったのです。

――『溶岩の家』では、マリアナは絶えず歩いている(しかも、決然として、躊躇のない様子で)という印象を受け、それがトラヴェリングの使用と対応しているように思われます。マリアナが病院を去って市場へ行くところが長いトラヴェリングで撮られるシーンや、彼女が車椅子のレオンを押して歩くシーンは非常に印象的です。しかし、こうしたトラヴェリングを監督はもうお使いにならず、『ヴァンダの部屋No quarto da Vanda (2000)以降は固定ショットを好んでいるように見受けられます。いま振り返ってみて、映画に運動感や一種の軽快さをもたらすこの技法についてどうお考えでしょうか。

 当時は私もカメラを動かすことができました。そのための手段があり、プロデューサーがいて、機材もあったので、そうすることができたのです。その後、デジタル・ヴィデオで、たった一人、あるいはごくわずかの人と一緒に、ほんのわずかな予算で映画を作り始めたため、いささかの制限が生まれるようになり、今ではカメラを動かすことが少なくなりました。そのための手段がないし、トラヴェリングの設置をしたりする忍耐を多少失ったということもある。今の私にとっては、他の事柄についての作業の方が重要なのです。
 カメラの動きや、それがもたらす軽快さについて言えば、私はそれがカメラの動きによってもたらされるとは考えていません。軽快さはむしろ、俳優たちの動きや、ショット内の事物の動きのなかにあるのかもしれない。カメラを動かしたからといって、運動が生じるわけではないのです。そういうわけで、私はカメラを動かすのを止めて、ある場所に置くことにしました。そうした撮影を繰り返すうちに、その方がいいと思うようになった。いわば別の種族になったのです。

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――『溶岩の家』では、エディットの夫がおそらく政治活動に関わって、強制収容所のタラファルで死んだらしいことや、看護婦のアマリアがかつてタラファルの料理人を務め、秘密裏にエディットとその夫の通信の手助けをしていたらしいことが少しずつ分かってきます。真夜中に、エディットの住む建物の屋上で、エディットとアマリアが一緒に踊るシーンは、そこで「前に進む若さ(Juventude em Marcha)」[『コロッサル・ユース』のポルトガル語原題、字幕では「青春バンザイ」]という台詞によって二人の間の共犯関係が示されることもあって、実に感動的です。タラファルと、それが本作で意味することについてお話いただけますか。

 タラファルという監獄は、ナチス風の強制収容所です。世界で初めての強制収容所の一つは、ポルトガルのもので、撮影していた島に、打ち棄てられた状態で存在していました。私にとって、それを看過することは不可能でした。撮影をしていた島はあまり大きくありませんでしたし、若いときは――今でも多少そうですが――とてもラディカルで、極左でしたので、タラファルについて語らないなどということは不可能だと思いました。そういうわけで、この女性、囚人の寡婦、囚人の孤児のようなこの女性の物語を作り出したのです――タラファルで死んだポルトガルのあらゆる抵抗者へのちょっとしたオマージュとして。

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 トークの最中には話題にする時間的余裕がなかったが、『溶岩の家』は音楽が非常に印象的な作品でもある。冒頭、カーボヴェルデの火山がしばらく映されると、突然、パウルヒンデミットの《無伴奏ヴィオラソナタ》Op.25-1の第4楽章の激しい旋律が流れ始める(ヒンデミット自身の1934年の録音がここで聞ける)。「荒れ狂ったテンポで。荒々しく。音程の美しさは二の次で」という指示の書かれた、この「パンク」とも言える楽曲は、ゴダールも『ヌーヴェルヴァーグNouvelle Vague (1990)や『映画史』Histoire(s) du cinéma (1988-98)でたびたび用いており、監督自身、その符合に後から気づいたそうだ。なお、トークの日はたまたま、ゴダールが89歳の誕生日を迎える前日だった。その晩の打ち上げの席では、夜中の12時が近づくにつれて監督がそわそわし始め、日が変わった途端に(日本時間ではあるものの)、皆でゴダールに乾杯するという忘れがたい瞬間もあった。

採録・翻訳:堀 潤之)

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トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)の日本版ポスターのアントワーヌ少年を真似るペドロ・コスタ監督 photo: Kazuhito Matsumoto


Entretien avec Pedro Costa (à Demachi-za, Kyoto)

Le 2 décembre 2019, j’ai mené un entretien avec Pedro Costa à Demachi-za, la salle de cinéma d’art et essai à Kyoto, à l’occasion d’une projection spéciale de son deuxième long-métrage, Casa de Lava (1994). Voici la retranscription intégrale de cette conversation. Une partie de cette séance a été diffusée le 4 janvier 2020 dans le cadre de l’émission radiophonique « Cinema-Kinema » sur Radio Kansai.

J’adresse tout d’abord mes remerciements à Pedro Costa, qui a donné son accord pour publier ici cet entretien. J’aimerais aussi remercier Naoko Tamura et Tazz Nishihara (Vutter Kohen) d’avoir organisé le séjour à Kyoto du cinéaste, Sei-ichi Tanaka de Demachi-za d’avoir programmé dans l’urgence cette séance spéciale consacrée à Pedro Costa, et Daichi Yoshino de l’émission « Cinema-Kinema » de m’avoir fourni l’enregistrement de l’entretien.

*

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––D’où vient l’idée de quitter le Portugal pour tourner Casa de Lava au Cap-Vert ?

Kon-banwa [en japonais]. C’était un moment politiquement très compliqué, pas très agréable à ce moment-là chez moi, alors je me suis dit que je devais aller ailleurs. J’ai trouvé un producteur qui s’appelait Paulo Branco, et je lui ai demandé de me payer un voyage sur l’île de Fogo, au Cap-Vert, parce que j’avais l’idée d’y faire un remake de I Walked with a Zombie de Jacques Tourneur.

––Votre deuxième et troisième films, Casa de Lava et Ossos (1994), ont été produits par Paulo Branco que vous venez d’évoquer, nom légendaire même pour le public japonais. Quels ont été vos rapports avec lui, à cette époque ?

Moi, j’ai fait l’école de cinéma de Lisbonne, je n’ai pas fini, j’ai fait deux ans. Et à la fin de la deuxième année, il y a un ami, un collègue, qui m’a demandé si je voulais travailler sur un film comme assistant producteur, vraiment juste un très petit boulot. Moi j’ai dit oui. C’est pour ça que j’ai quitté l’école, parce que j’ai commencé à travailler sur beaucoup de films comme assistant, et c’étaient des films produits par Paulo Branco.

C’est le moment où il a commencé à produire beaucoup de films : Oliveira, Wenders, Raoul Ruiz, Alain Tanner, Werner Schroeter, beaucoup de films. J’étais assistant sur plusieurs films qu’il a produits. Donc on a fait connaissance et, après avoir fait mon premier film, Le Sang (1989), il m’a contacté. Il avait beaucoup aimé le film, et il m’a dit : « si tu as besoin d’un producteur, je suis là ». Moi, j’ai dit : « d’accord. Bon, je veux aller au Cap-Vert ».

Je ne sais pas quelle est l’idée qu’on se fait de Paulo Branco ici au Japon mais, en Europe, c’est à la fois un homme très intelligent, très cinéphile et entrepreneur, oui, mais c’est aussi un pirate, un gangster. Mais moi j’ai toujours eu de bons rapports avec lui, très sincères et très honnêtes. On a fait une expérience avec Casa de Lava. Ça s’est bien passé avec lui, si bien qu’on a décidé de faire un autre film ensemble qui a été Ossos. Donc j’ai un bon souvenir de ce temps-là. Je le vois souvent à Lisbonne. Maintenant chaque fois que je le vois, il dit : « oh, il n’y a plus personne à qui parler, ils sont tous morts, Serge Daney, Chantal Akerman, je suis tout seul ».

[après la traduction consécutive en japonais] Deux choses. C’est une très belle salle, et [même si je bois en ce moment de la bière] je ne suis pas alcoolique… pas encore (rires).

––Dans votre premier film, Le Sang, il y avait plein de références cinéphiliques qui étaient probablement inconscientes. On dirait que ce film était plongé dans la mer de l’univers cinématographique. En regardant Casa de Lava, on pense immédiatement à quelques films de l’histoire du cinéma, notamment à Vaudou (I Walked with a Zombie) de Tourneur et à Stromboli de Rossellini (et peut-être aussi aux Yeux sans visage de Georges Franju). Est-ce que ces références étaient volontaires ? Y a-t-il une différence, au niveau de votre attitude à l’égard de l’histoire du cinéma, entre les deux premiers films ?

Pour le premier film, ça venait de beaucoup de films que j’aimais, surtout des films de Nicholas Ray, et beaucoup de films noirs américains que j’aimais et que j’aime encore. C’est le cinéma, disons, classique des années 30, 40, 50. C’était un film très nocturne, très romantique aussi. Dans ces années-là, je vivais pratiquement dans les salles de cinéma, tout le temps. Donc ce premier film est sorti un peu hanté, peuplé par ce monde de Nicholas Ray, Murnau et Fritz Lang etc. Avec Casa de Lava, ça a changé un peu, je dirais que c’est moins référentiel. Mais personne ne peut faire un film avec un volcan, par exemple, sans penser à Rossellini, c’est impossible. Comme personne ne peut faire un film sur la religion et ne pas penser à Bresson, c’est la même chose.

Casa de Lava, c’est le film où j’ai vraiment commencé à penser à ce que j’aimais vraiment, à comment je pouvais faire des films qui seraient à moi. Donc j’ai commencé à penser moins aux autres films. Peut-être parce que j’étais très loin, j’étais dans une île où il n’y avait rien, presque pas d’électricité, et c’était une expérience très radicale. Et c’est vraiment le film qui m’a fait penser que je devais changer un peu, changer quelque chose dans ma vie. C’est le film qui m’a appris, qui m’a dit : voilà, tu n’aimes pas beaucoup les paysages, la fiction, tu aimes plutôt les maisons, les chambres, tu es plutôt du côté des gens réels, de la vie réelle, peut-être du documentaire, pour simplifier.

––Voici le cahier de préparation, alias « Scrapbook », pour Casa de Lava. C’est un collage de photos (surtout des portraits de femmes), de peintures, de coupures de journaux, de fragments de scénario, etc. Je suis tenté de dire que c’est cela le « livre d’image » au sens godardien. Avez-vous construit ce cahier en dehors de la préparation du scénario ? Quel a été le rôle, la fonction qu’il pouvait avoir pendant le tournage ?

Effectivement, c’est très proche de la pratique de Jean-Luc Godard, il a toujours fait un peu ça dans ses films et aussi dans les scénarios qu’il fait, ses scripts. C’est toujours des images collées, des coupures… Donc ça vient de lui, mais lui, il a copié ça de quelqu’un qui était très important pour lui et qui a écrit des livres assez importants pour, moi je dirais pour les cinéastes. C’est André Malraux, qui a surtout écrit un livre qui s’appelle Les Voix du silence et aussi Le Musée imaginaire. L’idée de Malraux, que Godard a copié comme toujours, c’est qu’on peut mettre tout ensemble : Hokusai avec Man Ray, Michelangelo avec Jean-Marie Straub, Picasso avec les grottes de Lascaux, premiers dessins de l’homme. Les arts n’ont pas de passé ou d’avenir, il n’y a que du présent. Les grands films et les grands tableaux sont toujours d’aujourd’hui. Il n’y pas de films vieux, il n’y a que des films d’aujourd’hui, comme quand vous allez voir un Picasso, c’est d’aujourd’hui, c’est ça l’idée.

Moi, j’avais ce cahier vert. C’est un cahier d’écolier, et je me demande d’ailleurs si ce n’est pas japonais. Je me suis toujours demandé ce qu’il y avait sur la couverture, si ce n’était pas une marque japonaise, je ne sais pas. Je l’ai acheté, je crois, à Lisbonne, et je l’ai pris au Cap-Vert où j’ai commencé à coller des choses : des cartes postales, etc. C’est un cahier secret pour moi. Il était toujours dans ma chambre ou dans mon sac. Il était à côté du scénario, parce qu’à ce moment-là, j’écrivais encore des scénarios, un scénario classique, 100 pages, dialogues, etc. Il était dans mon sac à dos, et il était à côté du scénario, mais moi j’ai toujours considéré ça comme le vrai scénario. C’est ça que je voulais faire.

Ça serait très bien si on pouvait avoir des scénarios comme ça pour trouver de l’argent, et pas seulement pour soi-même, parce que c’est un outil de travail très bien. Parce que vous savez exactement ce que vous voulez faire, ce sont des images qui vous donnent des idées, et là c’est vraiment un « livre d’images ». Moi, j’aimerais beaucoup vivre dans un monde où n’importe quel cinéaste, jeune cinéaste, pourrait faire un livre comme ça, un scénario comme ça, et le donner à un producteur, ou une fondation, et ce serait sur cette base il aurait un peu d’argent pour faire un film. C’est impossible parce que les gens veulent de l’écrit, ils veulent des paroles, des dialogues, les producteurs ne veulent pas l’image, du tout, et c’est dommage.

––À partir de Casa de Lava, vous commencez à faire appel à des acteurs non-professionnels. J’imagine que les gens du Cap-Vert sont tous des habitants des îles. Comment avez-vous choisi les personnages principaux (comme Tinna, Tano, Amalia, et la fille qui vend des sandales à Mariana) ?

En effet, je pense qu’à ce moment-là je commence déjà à––ce n’est pas ne pas aimer mais––à me méfier, à douter des acteurs professionnels. Il y avait quelque chose que je n’aimais pas trop chez les acteurs professionnels. J’ai choisi des acteurs amateurs, des acteurs qui n’étaient pas acteurs, juste parce que j’ai pensé qu’ils étaient les gens, les personnes, qui pouvaient résister le plus aux acteurs professionnels, qu’ils étaient les gens qui pouvaient vraiment faire peur aux acteurs professionnels. Par exemple, le garçon, Tanno, la fille ou Amalia, tous les gens que j’ai rencontrés paraissaient très forts, résistants aux acteurs professionnels que j’avais avec moi.

C’est juste que je voulais que les acteurs non-professionnels soient comme des gens très durs, comme des rochers, des roches, parce que dans Casa de Lava, « Lava » c’est la lave, le volcan. Je voulais des gens silencieux, durs, impénétrables, qui pouvaient dire non, toujours non, non, non.

––Ce qui semble très caractéristique dans ce film, c’est le mélange du portugais et du créole. Pour ceux qui ne comprennent pas le portugais, c’est difficile de les distinguer en écoutant, mais en suivant les dialogues, on comprend que le personnage d’Edith est quelqu’un qui a oublié le portugais et ne parle que le créole, que Mariana comprend le créole quand on le parle lentement, etc. En tant que portugais, quelle image avez-vous à l’égard du créole ? Et n’aviez-vous pas de difficulté à faire parler le créole aux acteurs professionnels comme Issach de Bankolé, Edith Scob, et Pedro Hestnes ?

Le créole, comme tous les créoles, pas seulement le créole portugais, tous les créoles sont un peu des langues aussi de résistance. Normalement ce sont des langues des pays africains, ou des pays de l’Amérique latine, là où tous les colonisateurs, portugais, espagnol, français ou anglais, ont tous imposé leur langue. Donc ce qu’on parle au Cap-Vert, ce que Mariana va rencontrer, ce n’est pas le portugais, c’est la langue qu’on parle là-bas, il fallait faire ça. Donc il fallait que tous les acteurs apprennent, ils ont appris, c’était extrêmement facile. Ça dit quelque chose sur les gens, sur leur personnalité. Edith Scob a appris le créole comme ça (claque des doigts), en trois secondes elle parlait comme les gens du village, c’était incroyable. Et Issach de Bankolé n’a jamais bien parlé le créole, il a résisté, il ne voulait pas, ne voulait pas. Edith Scob voulait vraiment se perdre dans l’île, elle voulait en faire partie. Mais Issach, je ne sais pas pourquoi, peut-être parce qu’il était lui-même africain, mais un africain très parisien, ou peut-être qu’il a résisté, il n’a jamais appris le créole comme il fallait. Bon, je ne sais pas, c’est comme ça.

––On a l’impression que Mariana est une femme qui n’arrête pas de marcher (d’ailleurs de façon très résolue sans hésitation), et cela correspond à l’utilisation de travelling dans ce film. La scène où elle quitte l’hôpital vers le marché, tournée en long travelling, et la scène où elle pousse Leão dans un fauteuil roulant sont très impressionnantes. Mais il semble que vous n’invoquerez plus le travelling pour préférer le plan fixe, notamment à partir de Dans la chambre de Vanda (2000). Que pensez-vous maintenant (rétrospectivement) de cette technique et de ce qu’elle apporte à un film––un sens de mouvement, une certaine légèreté, allégresse etc. ?

C’était une époque où je pouvais faire des mouvements, j’avais les moyens, j’avais les producteurs, j’avais les machines, donc je pouvais faire les choses. Après, j’ai commencé à faire des films en digital, en vidéo, tout seul, ou avec très peu de gens, et avec très très peu d’argent. Donc j’ai commencé à être un peu limité, et voilà je fais maintenant moins de mouvement parce qu’on n’a pas de moyens, parce que j’ai perdu un peu de patience, disons. Installer des travellings et tout ça… Pour moi maintenant, c’est plus important de travailler sur d’autres choses. Et les mouvements, la légèreté dont vous parlez, je ne crois pas qu’elle soit dans les mouvements de l’appareil. Elle est peut-être dans les mouvements des acteurs, des choses dans le plan. Ce n’est pas parce qu’on bouge la caméra qu’il y a du mouvement. Donc, voilà, j’ai arrêté de bouger et me suis posé [avec ma caméra]. Parce qu’à force de tourner, tourner, je me suis dit que c’était mieux pour moi. Je suis un peu d’une autre famille.

––Dans le film, on apprend petit à petit que le mari d’Edith était probablement engagé dans les actions politiques et mort dans le camp de concentration de Tarrafal, que l’infirmière Amalia a été cuisinière là-bas et aurait aidé clandestinement la communication entre Edith et son mari. La scène de danse en pleine nuit sur le toit de ces deux personnages est très émouvante, d’autant plus qu’on entend « Juventude em Marcha », signe de complicité entre les deux femmes. Voulez-vous parler un petit peu plus sur Tarrafal et ce qu’il implique dans ce film ?

Alors, cette prison de Tarrafal, c’est un camp de concentration, une conception nazie. C’est un des premiers camps de concentration au monde, c’était portugais. Et comme ça il était sur l’île où on tournait, abandonné mais il était là, pour moi, c’était impossible de passer à côté. J’ai tourné un film dans cette île qui n’est pas très grande. Par ailleurs, quand j’étais jeune, j’étais––je le suis encore un peu––très, très, très radical, très à gauche. Donc ça me semblait impossible de ne pas parler de ça. Voilà, j’ai un peu inventé cette histoire d’une femme, une veuve d’un prisonnier, orphelin d’un prisonnier, comme un petit hommage à tous les résistants portugais qui sont morts là-bas.

*

Je regrette un peu de ne pas avoir pu parler, par manque du temps, de la forte présence de la musique dans Casa de Lava. Au début du film, après la vision de plusieurs images de paysages volcaniques cap-verdiens, commence brusquement la violente mélodie du quatrième mouvement de Sonate pour alto seul, Op.25-1, de Paul Hindemith (vous trouverez ici un enregistrement de 1934 par le compositeur). Indiquée au début de la partition « Mesure enragée, sauvage. La beauté sonore est secondaire », cette pièce « punk » est fréquemment citée par Jean-Luc Godard dans sa Nouvelle Vague (1990) et ses Histoire(s) du cinéma (1988-98), dont Pedro Costa a reconnu après coup la coïncidence. Par ailleurs, il arrive que cet entretien a coïncidé avec la veille du 89ème anniversaire de Godard. Au repas du soir, il y eut un moment inoubliable où Pedro Costa commençait à être impatient à l’approche du minuit, puis il proposa un toast à Godard dès qu’on fut le 3 décembre (bien que nous étions à l’heure japonaise).

(transcription : Junji Hori et Anthony Lieven)


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Portrait de Pedro Costa déguisé en Antoine Doinel tel qu’il apparaît dans l’affiche japonaise des Quatre cents coups (1959). photo: Kazuhito Matsumoto

*1:1980年代初頭からのパウロ・ブランコの活動については、2019年の山形国際ドキュメンタリー映画祭の特集「Double Shadows/二重の影 2――映画と生の交差する場所」で上映されたボリス・ニコ『パウロ・ブランコに会いたい』Deux, trois fois Branco (2018)が参考になる。

*2:ペドロ・コスタ『Casa de Lava――『溶岩の家』スクラップ・ブック』シネマトリックス、2010年。本書は版元品切れだが、リスボンの出版社から刊行された版(Casa de Lava: Caderno, Pierre von Kleist editions, 2013)は2020年1月現在も入手できる。