les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

D・W・グリフィス『イントレランス』余話

 D. W. グリフィスの最大の野心作『イントレランス』Intolerance (1916)を構成する4つのエピソードのうち、最もまとまった物語を展開している「現代篇」は、数年後にグリフィス自身によって再編集されて、『母親と法律』The Mother and the Law (1919)という独立した長篇映画として公開されている(YouTubeでも見ることができる)。

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 この映画はおそらくグリフィス作品のなかでも相対的にマイナーで、元々本作の企画が発端にあったにもかかわらず、『イントレランス』の影に隠れて顧みられない傾向にある。しかし『母親と法律』は、『イントレランス』から「現代篇」を単に抜き出しただけの作品ではなく、新たに撮影されたシーンをそれなりに多く含むなど、独立した長篇としても見応えがある。率直に言って、もっと見られてもよい作品だと思う。

 基本的なストーリーは同じで、主人公は労働者階級の〈愛らしい娘〉The Dear One(メイ・マーシュ)と〈青年〉The Boy(ロバート・ハーロン)である。工場のストライキ弾圧に巻き込まれて、都市に移住せざるをえなくなった二人は、そこで初めて出会う。〈スラム街のごろつき〉The Musketeer of the Slums(ウォルター・ロング)の手下としてケチな悪事を働いている〈青年〉は、〈愛らしい娘〉との結婚を決めるとそこから足を洗おうとするが、逆上した〈ごろつき〉にはめられて刑務所行きとなる。〈愛らしい娘〉には子供が生まれるが、偽善的な社会改革運動家たち(Uplifters)によって子供を取り上げられてしまう。やがて〈ごろつき〉は〈愛らしい娘〉に言い寄るようになり、それに嫉妬した情婦〈友人なき女〉The Friendless One(ミリアム・クーパー)は〈ごろつき〉を射殺するに至り、その罪が出所したばかりの〈青年〉に着せられる。絞首刑の準備が着々と進んでいくときに〈友人なき女〉が自白し、〈青年〉がすんでのところで死を免れるラストミニッツ・レスキューが終盤のクライマックスとなる。こうして梗概を記してみると、なんとも荒唐無稽なストーリーである。

 このストーリーが、『イントレランス』では他のエピソードと忙しなく組み合わされて展開するのに対して、『母親と法律』では単線的に、より詳しく語られるので、同作を合わせ鏡とすることで、『イントレランス』の(いささか省略的な)「現代篇」の物語を十全に理解することも可能になるだろう。

 先日(2021年12月25日)、神戸映画資料館で『イントレランス』についてのレクチャーをした際には触れる余裕がなかったが、以下、『母親と法律』で追加されたシーンを列挙しつつ、その見どころを紹介してみたい。

  • 「現代篇」にも〈青年〉が家に入りたがるのを〈愛らしい娘〉が全力で押し返し、一度は怒って帰りかけてしまう〈青年〉が戻ってきてプロポーズする(そして扉が細く開いて、二人がキスを交わす)場面があるが、『母親と法律』ではそれに先立って、デートの後に家に入ろうとする〈青年〉を〈愛らしい娘〉が棒で思い切り叩いて追い返すややコミカルなシーンがある(上は『イントレランス』現代篇の扉ごしのショット゠切り返しショット。下は『母親と法律』にしかないシーン)。出会いからプロポーズにまで至る過程が、このように『母親と法律』では多少とも丁寧に描かれている。

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  • プロポーズの後、「現代篇」では〈青年〉が真人間になろうとして〈スラム街のごろつき〉にピストルを返却するも、逆にはめられてあっという間に刑務所行きとなるが、『母親と法律』にはその前に材木置き場でデートをする微笑ましいシーンが挟まれている。このロケーションが労働者階級の界隈の雰囲気を少ない道具立てで醸し出していて良い。ここでは、〈愛らしい娘〉のコケティッシュな歩き方を、まさにその歩き方に魅了された当の〈青年〉が止めさせるという興味深いくだりもある。

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  • 〈青年〉が刑務所に入っている間に〈愛らしい娘〉は母親となるが、『母親と法律』では子供が産まれるまでの間に二度ほど、彼女が刑務所に面会に行くシーンがある。二度目の面会では、柵を挟んで、珍しくショット゠切り返しショットで二人のやり取りがなされる。

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  • 『母親と法律』には、〈青年〉が刑務所での土木作業に従事する姿も何度か描かれる。オスカー・ワイルドの⦅レディング牢獄の唄⦆の一節が字幕で提示され、〈青年〉への死刑宣告を暗示するかのように、深々と掘られた墓穴が映し出される不気味なシーンもある(右)。

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  • 〈愛らしい娘〉は、母親不適格として、生まれたばかりの子供を取り上げられてしまう。『母親と法律』では、偽善的な社会改革運動家たちと対比するかたちで、「愛」に基づくまっとうな救貧組織として救世軍が出てくる。子供を保護することを是認する裁判所のシーンも加えられている。社会改革運動家に対するグリフィスの根深い疑念は、掘り下げて検討すべき論点であろう。

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  • イントレランス』の「現代篇」との違いで何より驚かされるのは、『母親と法律』では取り上げられた子供が施設で死んでしまうこと(もちろん、収容以前に〈愛らしい娘〉が育児放棄していたせいだとされる)。ちっぽけな棺に入れられた赤ん坊の亡骸を見せられて涙にくれる〈愛らしい娘〉の姿には、見る者の胸を抉るものがある。この展開に応じて、『イントレランス』の末尾で〈愛らしい娘〉の手に子供が戻ってくるというシーンも当然『母親と法律』にはない。〈青年〉が死刑を間一髪で免れて一応ハッピーエンドで終わるものの、死んだ子供のことを思うと素直に喜べない。

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  • 〈友人なき女〉をめぐる描写も、「現代篇」と『母親と法律』とで大きな差異がある。まず、ストライキ弾圧の結果〈青年〉が街を去っていくときに、(おそらく父親を亡くして)天涯孤独になってしまったらしい〈友人なき女〉と握手を交わすシーン。シーンそのものは両方にあるものの、『母親と法律』では〈友人なき女〉が「彼の最初の恋人」であると明記されている。

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  • 〈友人なき女〉はその後〈スラム街のごろつき〉の情婦となる。やがて〈ごろつき〉が〈愛らしい娘〉に心変わりすると、先述のように嫉妬に狂った〈友人なき女〉が〈ごろつき〉を射殺することになる。「現代篇」では〈ごろつき〉の心変わりからあれよあれよという間に射殺に至るので、いささか唐突な展開のように思えるが、『母親と法律』では家でたまたまピストルを発見し、向こうを向いている〈ごろつき〉に遠くから戯れに銃を向けているうちにどうやら嫉妬心と怒りが込み上げてきて、彼に実際に銃を突きつけ、〈愛らしい娘〉との関係をなじる緊迫したシーンが挟まれることによって、彼女の思い詰めた精神状況がよくわかるようになっている。

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  • この射殺のシーンはこの物語の最大の見せ場のひとつだ。ある日、〈ごろつき〉が〈愛らしい娘〉の家に入り込んで関係を迫ろうとする(子供を取り戻す手段を見出したと噓をついて)。後をつけたきた〈友人なき女〉は、廊下から扉越しにその様子を窺いながら憤怒に満ちた表情を浮かべる。〈ごろつき〉の不審な動きを察知した〈青年〉も、妻がまさに襲われんとしている現場に駆けつける。〈青年〉がやって来たときにすばやく廊下の窓から外に出て身を隠した〈友人なき女〉は、建物の外側をアクロバティックにつたって〈愛らしい娘〉の家の窓から室内を窺う。扉を打ち破って〈ごろつき〉に殴りかかる〈青年〉。揉み合っている最中の〈ごろつき〉に、〈友人なき女〉はしばしのためらいの後に発砲し、ピストルを室内に投げ入れて逃走。こうして、〈ごろつき〉殺害の罪が〈青年〉に着せられることになる(以下の画像は『イントレランス』より)。

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  • このシーンで〈友人なき女〉がピストルの引き金を引くとき、彼女の頭には、かつて〈青年〉と別れの握手を交わした瞬間が蘇る。『イントレランス』ではこのワンショットのフラッシュバックの物語的な意味がやや分かりにくい印象だが(そのせいか、このショット自体がないプリントもある)、『母親と法律』を見れば、嫉妬に狂った〈友人なき女〉が、駆けつけた〈青年〉(かつての恋人)の姿を見て、彼を諍いに巻き込んでしまうのを躊躇したと考えるのが自然だろう。ミリアム・ハンセンがこのフラッシュバックに関して「殺人者の動機を徹底的に多重決定された、曖昧なものにしている」と書いているように(Babel and Babylon, p.159)、〈友人なき女〉の犯行には単なるストーリー展開上の都合を超えた、一種の実存的な深みがあるように思う。

 以上のように、『イントレランス』の「現代篇」と『母親と法律』には、注目すべき多くの差異がある。異なる時代との(特に結末付近での)目眩くモンタージュという革新的な手法によって多少の省略などものともしない「現代篇」と、よりクラシカルで通俗的といえば通俗的な『母親と法律』。テクストとして興味深いのはもちろん前者であるとはいえ、後者の叙情にも捨てがたいものがある。

【文献案内】

  • 英語文献では、Miriam Hansen, Babel and Babylon: Spectatorship in American Silent Film (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1992)第2部の『イントレランス』論(pp.127–241)が圧倒的に密度の濃い議論を展開している。この本は1980年代までの『イントレランス』論の集大成のような位置づけになっているので、ここから遡って気になるものを読むのがよい。
  • フランス語文献もたくさんあるが、Pierre Baudry, « Les aventures de l'Idée (sur Intolérance) » (Cahiers du cinéma, nº 240, juin-août 1972, nº 241, septembre-octobre, 1972)が目を引く。先立つ号には、同じくピエール・ボドリーらによる『イントレランス』のショットごとの記述もなされている。