les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

『ゴダール・ソシアリスム』覚書(1) ウェルズの徴の下に

ゴダールが予告編の名手であることはよく知られている。ゴダールの手にかかると、予告編はそれが予告するところの本篇の粗末な要約であるどころか、それ自体として一つの短編としての完成度を備えるようになる。そのことは、作品のキーワード(かわいい女の子、悪党、拳銃…)をアンヌ・コレットの声が次々に列挙する一方で、それに対応したりしなかったりする映像がテンポよく展開されていく『勝手にしやがれ』の予告編(左)——それを締めくくるのは、ゴダール自身による「今やっている最良の映画」le meilleur film actuelという声だ——や、同じ手法をブラッシュ・アップした『軽蔑』と『気狂いピエロ』の予告編を見るだけでも明らかだ。あるいは、ブレッソンの『少女ムシェット』の予告編(右)など、一種の映画批評になっているとも言え、「予告編」の概念そのものを更新している。その他にも、ゴダールの声が非西洋音楽のメタファーでみずからの即興的な映画作りを語り、「でも女は女なのよ」とカリーナがところどころで合いの手を入れる『女は女である』の予告編や、『はなればなれに』のカフェでの「1分間の沈黙」のゲームを反復するかのように、完全な無音で展開される『メイド・イン・USA』の予告編など、ゴダールの予告編は楽しい創意工夫にあふれている。

さて、『ゴダール・ソシアリスム』の予告編と言えば、すぐさま、全編を早回しで圧縮したものが思い浮かぶ。超高速であるとはいえ予告編で本篇全体を見せてしまうという挑発が、その仕掛けを誰もがただちに理解できるコロンブスの卵のような単純な着想に基づいてなされているという点で、この予告編は、カンヌ映画祭ほかでの、非フランス語話者を尊大に無視する「ナヴァホ語」による字幕と相似形を成していると言いうるかもしれない。また、予告編のなかに超高速で展開される本篇がすっぽりと収まっているという一種の入れ子細工は、物語中、オルガの船室にこれ見よがしに置かれているマトリョーシカや、マチアスが朗読する部分と全体をめぐるサルトルの発言と呼応してもいる。


といっても、このような予告編に先例がないわけではない。ブライアン・デ・パルマの『ファム・ファタール』(2002)の予告編は、まさに似たような手法を使って本篇全体を予告編の中に圧縮している。しかし、この予告編では、速度に緩急が付けられることによって、いくつかのシーンが目立たせられており、その点で伝統的な、ハイライト的な予告編とのハイブリッドを成しているのに対して、ゴダールの予告編は均一の速度で展開し、どの瞬間をも特権化することがない——それこそがイメージの民主主義だとでも言いたげに。むしろ、この予告編は、『シネマトン』のシリーズで知られるジェラール・クーラン(ゴダールを映したその106番は、YouTubeでも見られる)による、『勝手にしやがれ』全編を4分間で早回しする1995年の作品を思い起こさせもする(右上の写真は、昨年5月にオープンしたポンピドゥー・センター・メスで撮ったもの)。

公開まで2ヶ月を切った2010年の3月末からYouTubeを通じて出回り始めたこの予告編が、全部でおそらく4種類あることもよく知られている——とはいえ、万人による加工・複製が容易に可能なウェブ空間に放たれた時点から、ヴァリエーションの正確な数を同定することの意味はほとんどなくなっているのかもしれない。ともあれ、4つのヴァージョンの主な違いは、長さ(つまり、何倍速かということ)と音響・音楽である(音楽については、『ゴダール・ソシアリスム』関連資料(4) AUDIOSを参照)。早回しの映像の上に重ねられる字幕は、4つともほぼ共通しており、「諸々の事柄」DES CHOSES、「黄金」DE L'OR、「ろくでなしども」DES SALAUDS、「でたらめな話(歴史=物語)」DES HISTOIRES、「言葉」DES PAROLES、「動物たち」DES ANIMAUX、「子供たち」DES ENFANTS、「伝説」DES LÉGENDESである(DESを不定冠詞ではなく、「〜について」と解釈することもできる)。4つを並べてみると、以下のような具合になる(「予告編1」についてはあとで触れる)。

予告編2 4分強で一番長く、およそ25倍速。映画のサウンドトラックがそのまま早回しされている。この予告編だけ、「DES ENFANTS」という字幕が「UN ENFANT」と「DEUX ENFANTS」に分解されている。本篇を見た人なら、この予告編を見れば、おおむね内容を思い出すのに十分だろう。
予告編3 2分強の長さで、およそ50倍速。第1楽章はティエリー・マシュエルのオルガン曲、第2楽章はアルヴォ・ペルトの合唱曲、第3楽章は台所の母親とリュシアンのシーンで使われているピアノ曲がかぶさっている。
予告編4 2分弱の長さ。かぶせられている音楽が、ベティ・オリヴェロの楽曲に変わっている。
予告編5 1分強の長さで、およそ100倍速ということになる。音楽は、マシュエルのオルガン曲。日本版の予告編はこれが元になっている。

さて、本題はここからだ。上記の予告編のナンバリングからも察せられるように、『ゴダール・ソシアリスム』には、物議を醸した超高速の予告編シリーズのほかに、映画公開の1年近く前からウェブ上で流通していたもう一つの(本篇撮影中なので、必然的に、より「普通」の)予告編がある。ここで注目してみたいのは、その「予告編1」である。

真っ暗闇のデッキで、おそらくはベルナノスを転用して、堕落し、虐げられた「哀れなヨーロッパ」を召喚する黒人女性コンスタンスの映像から始まるこの4分強の予告編には、ほかにも、パレスチナ人女性に「イスラムは東洋の西洋」と語るロベール・マルビエや、ゴルトベルクに向かって「幸福なヨーロッパを再び見ることなく死にたくない」と語るロシアの女性諜報員オルガの姿が登場し、『ゴダール・ソシアリスム』の主題の一つが「ヨーロッパ」と「イスラム」にほかならないことを見まがいようもなく伝えている(引用されている文章については、『ゴダール・ソシアリスム』関連資料(1) TEXTOSも参照)。

さらに、このことはおそらくまだ誰も指摘していないはずだが、この予告編には、最終的には本篇に組み込まれなかった7つのアウトテイクが含まれている。まず、それを列挙すると、次のようになる(画像は、上の動画からキャプチャーしたもの)。

サンドイッチを頬張るゴルトベルク。この映像は本篇には存在しない。予告編では、フリーダが「幾何学たるもの」LA géométrieの定冠詞のLAを強調し、アリッサが「ドレミファソラ」と惚けるサウンドトラック(本篇では高級レストランのシーンでの会話)がかぶさっている。
デッキから見た海の風景。汽笛が鳴る。これも本篇には存在しない。
デッキでカメラを構えるマチアス。冒頭付近に登場する場面の別テイク。
パティ・スミスとレニー・ケイ。本篇とは別テイク(歌われている曲も違う)。
ギリシャ」のパート(第1楽章および第3楽章)の円形劇場の2つの画像の重ね合わせ。どちらの画像も本編に登場するが、両者がこのようなかたちで重ね合わせられることはなく、またこの予告編でのように右から左にパンすることもない。
オーソン・ウェルズ『アーカディン氏』(1955)にワンカット出演するルイ・ドリヴェ。本編には登場しない。
スペインの日刊紙『エル・パイス』の上に置かれた金貨。本編には登場しない。

これらのアウトテイクのうち、パティ・スミスの別テイクにも大いに興味をそそられるが、映画史的に最も興味を惹くのが6番目のものであることは言うまでもない。この『アーカディン氏』*1の一ショットは、ウェルズ演じる億万長者グレゴリー・アーカディンのいかがわしい過去を調査する主人公ヴァン・ストラッテン(ロバート・アーデン)が、かつてアーカディンが関わっていたらしいワルシャワの売春組織の摘発に協力したというナーゲル男爵夫人(シュザンヌ・フロン)の居場所を、あちこちで尋ねまわるテンポのよいモンタージュのシーンから取られたものだ。DVDからキャプチャーした次の画像を見れば、このくわえ煙草の男が、パリのアレクサンドル3世橋のたもとにいて、男爵夫人が今ではディオールの売り子をしていると語っていることがより明瞭に見て取れるだろう(また、スクリーン・サイズの違いから、ゴダールの引用では上下がトリミングされていることも分かる)。


この謎の男を演じているのは、『アーカディン氏』のプロデューサーのルイ・ドリヴェ*2。ドリヴェとウェルズが並んで座っている右の写真は、おそらく1950年頃のものだと思われる*3。1908年に、まだルーマニアに統合されていなかったトランシルヴァニアに生まれ、グルノーブルジュネーヴで学業を修め、30年代初頭にヴィリー・ミュンツェンベルクの手引きで共産党員となったドリヴェは、40年代にはアメリカ合衆国に亡命し、「ファシズムに脅かされた諸国家を防衛する〈自由世界〉Free Worldという組織」を立ち上げる。ウェルズは「1943年の秋」からこの組織に近づき、2年にわたってその機関誌『Free World』に記事を寄せることにもなる。こうしてドリヴェは、ウェルズの親友にして政治面での貴重な助言者となる*4。およそ十年後に『アーカディン氏』によって初めて映画製作に乗り出した背景には、こうした事情がある——不幸にして、映画製作のせいで彼らの友情には取り返しのつかないひびが入ることになるのだが。

ゴダールは1956年度のベストテンで、ルノワールの『恋多き女』、ヒッチコックの『知りすぎていた男』、ブレッソンの『抵抗』、ロッセリーニの『不安』などをさしおいて、『アーカディン氏』を第1位に挙げている。彼が『ゴダール・ソシアリスム』の「バルセロナ」のパートでこの作品を取り上げようとした理由は、ごく単純に考えるなら、バルセロナの上空を飛ぶ無人の飛行機が『アーカディン氏』の物語の端緒となっており、アーカディン氏の邸宅(実際にはセゴビアのアルカサルの外観が使われている)がスペインにあることになっているなど、スペインと関わりの深い作品だからだろう。また、この映画の舞台が、ナポリに始まり、パリ、バルセロナコペンハーゲン、タンジェ、アムステルダム、ロンドン、メキシコ、ミュンヘンなど、ヨーロッパを中心に多くの都市にまたがっていることも、地中海近辺の6つの寄港地に焦点を当てる『ゴダール・ソシアリスム』と呼応する。

さらに重要なのは、グレゴリー・アーカディンの人物像だ。映画の中盤で、踊り子としてアーカディン氏のヨットに潜入していたヴァン・ストラッテンの恋人ミリー(パトリシア・メディナ)が、キャビンでターゲットと二人きりで話をする機会をつかむシーンがある。二人の会話から、観客は、アーカディンがワルシャワ出身で、ヴィシー政権下でナチスと協力していたことや、ムッソリーニの指揮下でエチオピアでの道路建設に関与していたことを知る。こうした荒唐無稽な経歴は、『ゴダール・ソシアリスム』の謎の老人ゴルトベルクのものであったとしてもおかしくない*5

アーカディンの人物像の造形が、スターリンを意識していたことはよく知られている。自分のいかがわしい過去を知る者を次々に抹殺していくアーカディンの手口は、スターリンによる粛正を思わせもする——ウェルズ自身には必ずしもそのような意図はなかったとしても。また、ジョゼフ・マクブライドが指摘するように、ヴァン・ストラッテン役のロバート・アーデンが、当時は副大統領だったリチャード・ニクソンに似せられているとすれば、『アーカディン氏』は「FBIと非米活動委員会のやり口の暗いパロディ」*6としての側面をも持つことになる。こうした複数の歴史のアレゴリー的な側面が、とりわけゴダールの興味を惹いたことは大いに考えられる。

だが、なぜ、他でもないこのショットが選ばれたのだろうか? ゴダールは、アラン・ベルガラによる1998年のインタヴューで、亡くなる直前のジャック・タチから1982年に聞いた話を伝えながら、『アーカディン氏』のまさにこのショットに触れている。いささか長くなるが、その箇所を引いてみよう(強調引用者)。

あるとき、インタビューするためにタティのところに行った。そしてコーヒーをおごらせてほしいと言うと、彼はぼくにもそれくらいの金はあると答えながらコインをひとつとり出す。スペイン銀行発行の金貨だ。そして《これはスターリンが奪ったスペインの財宝の残りなんだ》と言う。その金貨は、第四インターナショナルのスパイだったルイ・ドリヴェがタティに与えたものだった。ぼくはドリヴェに近づいたことがあって、だから彼のことを知っていた。それは——ブロンベルジェと接触する以前の——ぼくの最初の接触で、彼がグレイ・フィルムを主宰していたときのことだ。『アーカディン氏』と『プレイタイム』をプロデュースしたのは彼なんだ〔引用者註・実際には『プレイタイム』ではなく『ぼくの伯父さん』を製作している〕。それに『アーカディン氏』のなかに、ドリヴェの姿が見られるカットがある。タティはぼくに二人の間の関係を説明してくれた。ドリヴェは、フランスのすべてのインテリゲンチャの心をとらえ、映画を、雑誌をプロデュースした、有名なヴィリー・ミュンツェンベルクの助手だった。そしてミュンツェンベルクはおそらくはスイスに金をもちこみ、戦後にドリヴェがそれを相続したんだ。彼はその金をつかって、スターリンの歴史の隠喩である、スペインを舞台とする『アーカディン氏』をプロデュースした。それにそのあと、やはりミュンツェンベルクを介して、スターリンが奪って隠しておいた、スペイン銀行の金のいくらかを相続したはずだ。タティの理論によれば、スターリンがスペイン内戦にてこ入れをしたのは、その金を奪うためだったんだ。これは完全に納得のいくことで、それというのも、スターリンはかつては銀行強盗だったからだ。レーニンは彼のそうしたところに目をつけたんだ。これはぼくが大いに提示したいと思っていた歴史だ。『アーカディン氏』と『プレイタイム』を真に関連づけているものはなんなのかというわけだ。そしてそれは、スターリンが盗み取った、スペイン銀行とスペイン共和派の金【きん】なんだ。ドリヴェはその金【かね】をつかって、ともに惨憺たる失敗作ではあってもじつに見事な二本の映画をプロデュースしたわけだ。(『ゴダール全評論・全発言3』奥村昭夫訳、筑摩書房、2004年、18頁より)

整理しよう。まず〈スペインの黄金〉(あるいは〈モスクワの黄金〉)に関する史実を確認すると、スペイン内戦が始まって間もない1936年の秋に、共和国軍は、スペイン銀行が保有していた大量の金(そのほとんどは金貨だった)のおよそ4分の3を、ソ連から調達した武器などの代価として、地中海に面した港湾都市カルタヘナ経由で、オデッサに確かに送り出している。3日かけて金を積み込まれた4隻の船は、10月25日に出航し、11月2日にオデッサに到着、5日には陸路でモスクワのスターリンのもとに無事に到着している。その間の紛失は、あったとしてもごくわずかだったと言われている*7

したがって、どういうわけかドリヴェを通じてジャック・タチに実際に金貨が渡ったことが本当だとしても(いまや、7番目のアウトテイク——『エル・パイース』紙の上に置かれた金貨——が、まさにその金貨と結びつけられていることは明らかだろう)、そしてスターリンが「金を奪うため」に「スペイン内戦にてこ入れをした」のがあながち嘘とは言い切れないのかもしれないとしても、〈スペインの黄金〉の一部がミュンツェンベルクを通じてドリヴェに流れていたというのは、ゴダール一流のまったくの法螺話——「偽史」と言ってもよい——である。しかも、引用文中に注記したように、ゴダールはドリヴェがプロデュースしたタチの作品を勘違いしてもいる。だが、ゴダールにもとより「正史」を語る意志がないことは明らかだ。〈スペインの黄金〉の行方を介して、スターリン-『アーカディン氏』-ルイ・ドリヴェ-ジャック・タチ-『プレイタイム』という、一見とうてい結びつくようには見えない諸要素を連結させること、それこそがゴダールによる「歴史」のモンタージュにほかならない。

こうしたいかがわしい倍音を響かせている『アーカディン氏』のワンカットが、なぜ最終的に本篇に組み込まれなかったのかを詮索することに、あまり大きな意義はあるまい。「バルセロナ」のパートには、同じくオーソン・ウェルズの未完の作品『ドン・キホーテ』(1957-)からの映像が引かれているのだから、それだけで十分だと判断しただけかもしれない。確かなのは、『ゴダール・ソシアリスム』という作品が、第1楽章の物語の要石となっている〈スペインの黄金〉——そして、それを相続したルイ・ドリヴェ——を介して、さらには『フェイク』(1974)を想起させる「偽史」の精神に全編が染められているという点で、疑いなく、オーソン・ウェルズの徴の下に置かれた作品だということである。

*1:『アーカディン氏』Mr. Arkadinあるいは『秘密調査報告書』Confidential Reportのタイトルで知られるこの作品には、決定版とも言えるクライテリオン版のDVDがある。日本では『秘められた過去』のタイトルでかつてビデオが発売されていたようだが、残念ながらDVDは発売されていないようだ。この作品の(例によって例のごとく)複雑な製作経緯と、複数あるヴァージョンの違いに関しては、Jonathan Rosenbaum, "The Seven Arkadins", in Discovering Orson Welles, University of California Press, 2007, pp.146-162が読み物として面白いが、著者自身が前書きで断っているようにちょっとした事実誤認があるので、あわせてフランスの誇るウェルズ・マニアたちによるJean-Pierre Berthomé et François Thomas, Orson Welles au travail, Cahiers du cinéma, 2006, pp.188-197を参照するとよい。なお、『映画史』1Aの冒頭でも、この作品から、アムステルダムのノミ調教師の教授(ミッシャ・オウアー)が虫眼鏡ごしに目を見開くショットが登場していたことが思い出される。

*2:このことに最初に注意を促したのは、Arthur Mas et Martial Pisaniによる«explication par la bande (annonce)»という記事であろう(この記事には英語版もある)。「予告編1」だけを見て、早い時期にここまで詳細な分析をしていたことには脱帽だ(なお、『ゴダール・ソシアリスム』関連資料(4) BIBLOSでも触れたように、彼らは映画本篇を分析した記事も書いている)。この記事は、のちに触れる〈スペインの黄金〉をめぐるゴダールの発言にも言及している。ただし、本篇の封切り前に書かれたと思われ、そのため、必然的に、このショットがあとから振り返ってみればアウトテイクになったことには触れていない。

*3:この写真は、Berthomé et Thomas, op.cit., p.162よりスキャンした。

*4:Berthomé et Thomas, Orson Welles au travail, p.115の記述に基づく。なお、この男を演じているのがドリヴェであることは、ウェルズの多くのフィルモグラフィーで割愛されているが、本書の詳細なフィルモグラフィーで確かめることができた。

*5:劇場パンフレットの注釈[※31]でも記したように、ゴルトベルクのモデルは、実在のドイツのスパイのリヒャルト・クリストマン。外人部隊を経て、ドイツ軍情報部(アプヴェーア)のスパイとして占領下のパリで暗躍し、戦後もゲーレン機関(対ソ防諜機関)や、BND(西ドイツ連邦情報局)や、アルジェリアのFLN(民族解放戦線)と関わり続けていたという経歴の持ち主である。

*6:Joseph McBride, What ever happened to Orson Welles?: a portrait of an independent career, University Press of Kentucky, 2006, p.115.

*7:ここに書いたことは『ゴダール・ソシアリスム』の劇場販売パンフレットおよび公式ホームページのWHO'S WHOの「スペインの黄金」の項目(無記名)と重複するが、わたしがそれを参照したわけではなく、元々その項目の記事がわたしの提供したメモに基づいていることをお断りしておく。