les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

2011年の仕事

昨年の12月半ばに刊行されたミネルヴァ書房の「映画学叢書」の第3巻に以下の論考を寄せた(詳細目次は、ここで見ることができる。また、この叢書については、このエントリーも参照して欲しい)。

映画のなかの社会/社会のなかの映画 (映画学叢書)

映画のなかの社会/社会のなかの映画 (映画学叢書)

参考までに、編者の杉野健太郎氏による「はしがき」から、本論文の内容紹介の部分を引用する。

堀潤之「アラン・レネを見るゴダール──『ヒロシマ、モナムール』から『映画史』へ」(第7章)は、フランスのヌーヴェル・ヴァーグの巨匠ジャン=リュック・ゴダールと社会というテーマを取り扱う。若き日のジャン=リュック・ゴダールアラン・レネの『ヒロシマ、モナムール』[邦題『二十四時間の情事』](1959)に大きな衝撃を受けたと語っていることを手がかりに、レネの初期作品群がゴダールに対して、現実社会の悲劇的な出来事を高度な映画的手法でもって表象するための一つの強力なモデルを差し出したのではないかという仮説を提示する。その仮説が一定の妥当性を持っていることを示すべく、本章は次の三つの事柄を指摘する。まず、同時代の政治的・社会的な出来事への関心の欠如が際立っていた1950年代の映画文化の風土のうちに登場したレネの初期作品が、映画と現実との関わりを考える上できわめて斬新に映ったであろうこと。次いで、ゴダールが『ヒロシマ』における「情事」と「恐怖」のモンタージュに特に驚かされたということ。そして最後に、その驚きの遙かなる痕跡が、とりわけゴダールの1980年代以降の作品、なかんずく『映画史』における強制収容所の表象のうちに見て取れること。本章は、こうした作業を通じて、ゴダールのキャリアにおいて『ヒロシマ、モナムール』から『映画史』へとつらなる一本の道筋を提示しつつ、映画芸術がどのように社会的事象を表象しうるのかをめぐる原理的な考察を伏在させている。

遅ればせながら2011年を振り返ってみると、2010年の秋くらいからの割と長い準備期間を経て書いた「Truffaut and the Photographic: Cinema, Fetishism, Death」というトリュフォー論を仕上げるのに案外手こずりつつ(このトリュフォー論は、Wiley/Blackwellから今年中に出るはずの論集――このシリーズの一巻――に収録される)、それを書いたことで『写真空間』1〜4の連載で着手していた「映画と写真」の問題系を具体的に広げていく見通しが少し立った。

他方、2011年に発表した3つのゴダール論をならべてみても分かるように、ゴダールについてはどうしても考えが拡散していってしまい(逆に言えば、何を考えてもゴダールという巨大なブラックホールに吸い込まれてしまう)、またその方が書くのも楽しいということもあり、これまで研究を収斂させることを怠ってきたが、そろそろ『映画史』以降の時期に関して一つのまとまった見通しを提示したいと考えている。

論文など

映画の身体論 (映画学叢書)

映画の身体論 (映画学叢書)

書評・短評など