les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ジャック・リヴェット「卑劣さについて」を読む

ついにジャック・リヴェットが亡くなった。2010年にはエリック・ロメールクロード・シャブロル、2012年にはクリス・マルケル、2014年にはアラン・レネが立て続けに逝去し、ヌーヴェル・ヴァーグの時代を牽引した映画人たちのうち存命なのは、ジャン=リュック・ゴダール(1930-)や、アニエス・ヴァルダ(1928-)や、ジャック・ロジエ(1926-)くらいになってしまった。

リヴェットの作品で最初に見たのは、たぶん『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)だったと思う。その後、『北の橋』(1981)、『美しき諍い女』(1991)なども見て、『ジャンヌ・ダルク』2部作(1994)以降は、日本で封切られたものは封切り時に見た。かつて随分苦労して長編第一作の『パリはわれらのもの』(1960)の米国版VHSや、『アウト・ワン』(1971)の4巻組の仏語版VHSを手に入れて見たことも懐かしい。しかし、どの作品を見ても、その奇抜な着想には魅せられながらも、ほとんど異星人が作った映画を見ているようで、リヴェットがやろうとしていることが腑に落ちたという気は残念ながらいまだにしない。

リヴェットの作品をさらに謎めいたものにしている理由は、彼の作品群のトーンが、1950年代に彼が書いていた切れ味鋭い映画批評と調和していないことではないだろうか。ゴダールは、批評を書くことはすでに映画を撮ることだったと言い、実際、彼の映画批評は彼の映画と類似しており、彼の映画と同じくらい痛快だ。トリュフォーにおいても、批評と実作の連続性は比較的明瞭に見て取れる。しかし、リヴェットはどうか? 「ロッセリーニについての手紙」や「ハワード・ホークスの天才」といった彼のきわめて鋭利な批評は、見終わった後にチェシャ猫の笑いのごとく不思議な感覚だけが残る彼の作品群と同一世界にあるようには思えないのである。しかも、彼は自分の批評が本のかたちで集成され、再刊されることを望まなかったようで、彼が主に1950年代に書いた文章を読むには、いまだに『カイエ・デュ・シネマ』誌などのバックナンバーに当たらなければならないという事情も、彼の映画と批評のあいだの断絶の印象を強めている。

さて、リヴェット追悼の意味も込めて、ここに「卑劣さについて」の新訳を披露したいと思う。「卑劣さについて」は、ジッロ・ポンテコルヴォ(1919-2006)の『カポ』Kapo (1960年、邦題『ゼロ地帯』)のあるシーンにおけるトラヴェリングを弾劾した短評で、『カイエ・デュ・シネマ』の120号(1961年6月号)に掲載された。のちの映画批評家セルジュ・ダネー(1944-92)に決定的な影響を与えたことでも知られていて、その点については「『カポ』のトラヴェリング」(『不屈の精神』所収、梅本洋一訳、フィルムアート社、1996年、17-53頁)に詳しい。「卑劣さについて」には故・梅本洋一氏による既訳があるが(同書の221-225頁に「資料」として訳出されている)、同書は版元品切れ中でもあり、また重要なテクストには複数の訳があってもよいだろうという判断から、以下に試訳をお目にかける次第である(文章中の太字は原文イタリック)。

なお、ダネーも見たことがないという『カポ』は、今ではDVD(海外版)で手軽に見ることができる。

Kapo' [Italian Edition]

Kapo' [Italian Edition]


ジャック・リヴェット「卑劣さについて」(Jacques Rivette, « De l'abjection », Cahiers du cinéma nº 120, juin 1961, p.54-55)

 最低限言いうるのは、このような主題(強制収容所)についての映画を企てるとき、自分に前もってある種の問いかけを課さずにいるのは難しいということだ。にもかかわらず、錯乱しているからか、愚かだからか、はたまた意気地がないからか、まるでポンテコルヴォがそのような問いかけをするのを果敢にも無視したかのようにすべてが進行している。

 たとえば、リアリズムという問いかけがある。容易に理解できるさまざまな理由で、絶対的なリアリズム、あるいは映画でその代わりとなりうるものは、この場合、採用することはできない。この方向でのあらゆる試みは必然的に未完成(「したがって不道徳」)であり、再構成や滑稽でグロテスクな偽装(maquillage)のあらゆる試み、「スペクタクル」という伝統的なあらゆるアプローチは、覗き見趣味とポルノグラフィーに属しているのだ。演出家は〔リアリズムを〕味気ないものにしなければならない。自分が思い切って「現実」として提示しているものが、観客にとって物理的に耐えうるものであるために。その結果、観客は、たぶん知らず知らずのうちに、こう結論するしかなくなるだろう。もちろん、それは痛ましいことだった、あのドイツ人たちは何と野蛮なのか、だが結局のところそれは耐えがたいものではなかった。十分に思慮深くあって、多少なりとも機転を働かせたり辛抱したりすれば、切り抜けることができたはずなのだ、と。同時に、誰もが知らないうちに恐怖に慣れてしまい、恐怖が生活慣習のなかに少しずつ入り込み、やがて現代人の精神的な風景の一部となるだろう。そうなったら、実際、衝撃を与える(choquant)ものではなくなったものに、今度、いったい誰が驚いたり憤ったりできるというのだろうか?

 ここで私たちは、『夜と霧』の力が記録資料に由来するのではなく、モンタージュから来ていたことを理解する。つまり、あるがままの事実――悲しいかな、現実に起こった事実――を、ある動きのなかでまなざしにもたらすような技法に由来していたことを――その動きはまさしく、〔収容所でみられる〕現象を理解し、認めることを承諾しえない、明晰でほとんど非人称的な意識の動きである。レネが取り上げたものよりもむごたらしい記録資料は、ほかで見ることもできたが、人が慣れることのできないものなどあろうか? ところが、『夜と霧』に慣れてしまうことはない。映画作家が自分の示すものを裁き、またその示し方によって裁かれているからだ。

 話は変わるが、ムレの「道徳とはトラヴェリングに関わる事柄である」という文章(またはそのゴダール版の「トラヴェリングとは道徳に関わる事柄である」)は、あちこちで大いに引用されたが、たいていの場合、かなり愚かな仕方で引用された。人はそこに形式主義(formalisme)の頂点を見て取ることを望んだのだ――〔ジャン・〕ポーランの用語法を借りるならば、むしろその「恐怖政治」的な行き過ぎを批判することもできるのに。しかしながら、『カポ』で〔エマニュエル・〕リヴァが電気の流れる有刺鉄線に身を投げて自殺するショットを見るがよい。その瞬間に、死体を仰角で再び画面に収めるべく前方へのトラヴェリング(travelling-avant)を行い、挙げられた手が最終的なフレーミングでちょうど角に刻まれるように気を配ることにしたこの男は、最も深い軽蔑にしか値しまい。私たちは数ヶ月前から、形式と内容とか、リアリズムと夢幻劇とか、脚本と「演出」とか、自由に演じる俳優か制御された俳優かとか、その他のたわごと(balançoire)といった偽の問題にうんざりさせられている。あらゆる主題は権利上、生まれながらにして自由かつ平等であるのかもしれないが、重要なのは、色調(ton)、あるいは語調(accent)、ニュアンス――どれでも好きなように呼べばよいだろう――であり、すなわち、ある人間――作家という必要悪――の視点であり、その人間が自分の撮るものに対して、したがって世界と森羅万象に対して取る態度なのである。それは状況の選択や、筋書きの構築や、台詞や、俳優の演技や、純然たる技法(technique)のうちに、「一様におなじだけ」(indifféremment mais autant)表れうるのである。恐れとおののきを抱きながらでしか取り扱うべきではない事柄というものがある。おそらく、死はその一つであろう。これほど神秘的な事柄を撮影する瞬間に、どうして自分が詐欺師だと感じずにいられるだろうか? ともかく、自分に問いを課し、その問いかけを何らかの仕方で自分が撮るもののなかに含める方がよいだろう。だが、疑いこそ、ポンテコルヴォやその同類に最も欠けているものなのだ。

 一本の映画を作ることは、ある種の事柄を見せることであり、同時に、同じ操作によって、それらの事柄をある一面から見せることである。この二つの行為は、絶対に切り離すことができないのだ。演出のなかに絶対的なものがありえないのと同様――というのも、絶対的なもののなかに演出はないのだから――、映画は決して「言語活動」(langage)にはならないだろう。記号(signe)とシニフィエ(signifié)の関係はここではまったく通用しないし、ザジ少女と同じくらい悲しい異端にしか帰着しない。総合の代わりに付加、統一性の代わりに分析で済ませようとする映画的事象のアプローチはどれも、私たちをただちに映像のレトリックに差し向けるのだが、それは機械図が絵画的事象と関係するほどにしか映画的事象と関係していない。「左翼の批評家」を自称する者たちにとって、なぜこのレトリックがかくも貴重なものであり続けているのだろうか?――おそらく、結局のところ、彼らは何よりもまず筋金入りの教師なのだろう。だが、私たちがつねに、たとえばプドフキン、デ・シーカ、ワイラー、リッツァーニ、それにIDHECの旧従軍兵たちを嫌ってきたのは、この形式主義の論理的な帰結がポンテコルヴォと呼ばれるからである。拙速なジャーナリストたちがどう考えようと、映画史は毎週、革命の状態に陥るわけではない。ロージーのような人物の力学や、ニューヨークで行われている実験は、砂浜に打ち付ける波が深海の静けさを揺るがさないのと同様、映画史を揺さぶることもない。なぜか? 人は一方で形式的な問題だけをみずからに課し、他方でそうした問題すべてをいっさい提起することなく、前もって解決しているからだ。だが、真に歴史をなしており、「その道の専門家」(hommes de l’art)とも呼ばれる人々は、むしろ何と言っているのか? レネは、今週のある映画が観客としての彼の興味を惹くとしても、アントニオーニを前にしては自分がアマチュアでしかないと感じると告白するだろう。トリュフォーならルノワールに関して、ゴダールならロッセリーニに関して、ドゥミならヴィスコンティに関して、おそらく同じことを言うだろう。さらに、あらゆる記者や時評家に逆らって、セザンヌが少しずつ画家たちによって押しつけられたのと同様、映画作家たちもムルナウや溝口を歴史に押しつけるのだ…。