les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

運動家ゴダール

加藤幹郎氏の監修、および杉野健太郎・塚田幸光の両氏の編集によって、全10巻に及ぶ刊行が予定されているミネルヴァ書房の「映画学叢書」の第2巻に以下の論考を寄せた(「映画学叢書」の第1巻は杉野健太郎編『映画とネイション』としてすでに刊行されており、第3巻の杉野健太郎編『映画のなかの社会/社会のなかの映画』も近日中に続刊予定である)。

映画の身体論 (映画学叢書)

映画の身体論 (映画学叢書)

本書では、ブルース・リー原節子市川雷蔵から、戦中のミュージカル映画ブラックスプロイテーション映画まで、多種多様な身体表象のありようが論じられている。まだすべてに目を通したわけではないが、ヘイズ・コード廃棄以降のハリウッドにおけるスペクタクルとしての男性身体を扱った編者の塚田幸光による「メイル・ボディの誘惑——ニューシネマ、身体、ポルノグラフィ」は、彼の『シネマとジェンダー』(臨川書店、2010年)同様、やはり面白い。「面白い」と言うと語弊があるかもしれないが、身体表象、ポルノグラフィ、ヘイズ・コード、検閲、そして60年代アメリカ映画の変容といった多岐にわたる内容を、英語圏の膨大な映画研究の成果を易々と咀嚼しながら、あくまでも軽快な筆致で、分かりやすい具体例とともに展開する力量を持った書き手はそういないのではないか。

川本徹の「カウボーイと石鹸の香り——ハリウッド映画における男性の入浴シーンについて」も、主に西部劇を取り上げながら、ヒーローの入浴シーンに込められた意味作用を多くの魅力的な例とともに解き明かす好論文だ。これを読んで、さまざまな入浴シーンが思い浮かんできた。本論文では『四十挺の拳銃』が取り上げられているサミュエル・フラーの『地獄への挑戦』(I Shot Jesse James, 1949)で、入浴中のジェシー・ジェイムズの無防備な背中を目の前にして、引き金を引けずにいる裏切り者のボブ・フォード。同じくフラーの『東京暗黒街・竹の家』(House of Bamboo, 1955)で木桶風呂に浸かっているロバート・スタックを、ギャングの親分のロバート・ライアンが無情にも撃ち殺し、弾丸が貫通した桶の穴からお湯が吹き出すなか、死体に向かってやさしげに語り続けるシーン。ゴダールの『気狂いピエロ』(Pierrot le fou, 1965)の冒頭でくわえ煙草をしながらエリー・フォールの『美術史』を朗読するジャン=ポール・ベルモンド。さらに、デヴィッド・クローネンバーグの『イースタン・プロミス』(Eastern Promises, 2007)のサウナで襲撃を受けて、全裸で闘うヴィゴ・モーテンセン…。読者ひとりひとりにこうした連想を誘う、喚起力のある文章だと思う。

わたし自身の論考は、ゴダール作品に頻出するスポーツのモチーフにとりわけ「運動」と「身体」の次元で着目し、その映画史的連関(とりわけ、ジャック・タチジェリー・ルイスとの絡み)やメディアとの関わりを論じたものである。詳しくはぜひとも本篇を参照していただきたいのだが、書籍というフォーマットの制約上、7点しか図版を掲載できなかったので、ここで当初用意していた図像のすべてを掲げて、それらをいわば予告編のごとく、本篇とは異なるロジックで編みなおしてみたい(画像はクリックすると大きくなります)。

論文を構想するにあたっては、たいてい、最初の閃きのようなものがある。それが何だったのかは、論文を書き進めていくうちに忘却の淵へと追いやられたり、あるいは隠蔽記憶のごとく、起源が捏造されたりすることさえあるのだが、この論文に関しては、おそらく『右側に気をつけろ』Soigne ta droite (1988)の冒頭シーンで、現在のウィンブルドンで選手たちがあげる雄叫びを揶揄するゴダールの奇矯な姿(下左)に動揺したことが発端だったように思う。そのすぐ後でアクロバティックな仕方で車に飛び乗るゴダールの軽やかな身体動作(下中)も忘れがたい。そして、実はこのショットは、『映画史』2Bの末尾付近で、ラルティーグ撮影による往年の名テニス選手シュザンヌ・ラングランの写真とすばやくモンタージュされているのだ(下右)。

  

となると、脳裏にはたちまち、ゴダール映画のあまたのテニスシーンが甦ってくる。『JLG/自画像』の室内コートでテニスに興じるゴダール(下左)、その前触れとも言える『ソフト&ハード』でラケットを振り回すゴダール(写真なし)、『ヌーヴェルヴァーグ』で重々しく往年のテニス選手のフォームを真似るアラン・ドロン(下中)、『ウイークエンド』でちょっとした武器として使われるテニスボール(下右)等々。

  

さらに、『気狂いピエロ』冒頭の謎めいたテニスシーンも忘れるわけにはいかない(下左・中)。まだまだある他の例についてはここでは省略するが、私が最も衝撃を受けたのは、ゴダールがある雑誌に載せた、ロジャー・フェデラーと収容所の囚人をコラージュした図版である(下右)。

  

テニスと並んで、ゴダール映画で最も印象的にフィーチャーされるスポーツは、ボクシングだろう。ゴダールの長編第一作『勝手にしやがれ』のジャン=ポール・ベルモンドがときどきボクサーの身振りをしていたことは、多くの観客の記憶に残っているはずだ(下左・中)。ベルモンドが煙草を吹かしながら映画館の前でうっとりと眺めるハンフリー・ボガートのポスターは、彼がボクシングのプロモーターを演じる『殴られる男』(マーク・ロブソン、1956年)のものなので、ここにもボクシングのモチーフが介在している。

  

同じベルモンドは、『女は女である』では、ランプシェードにパンチを食らわせたりもする(下左)。『気狂いピエロ』のガソリンスタンドで、ベルモンドとカリーナがローレル&ハーディ風の寸劇を演じてみせるシーンでも、ボクシングのポーズが登場する(下右)。

 

極めつけに印象的なのは、『ゴダールの探偵』でホテルの一室から一歩も外に出ないボクサーのステファヌ・フェラーラだろう。エマニュエル・セニエ演じる恋人の乳房へのスパーリングは、見る者を唖然とさせずにはいまい(下右)。ボクサーと裸体の組み合わせは、たちまち『アリア』所収の短編『アルミード』で、半裸のメイドたちに誘惑を受けるボディービルダーたちを思い起こさせる(写真なし)。

  

ゴダールにおけるスポーツのモチーフは、テニスとボクシングだけにとどまらない。彼の映画の登場人物たちは、時にはホッケーの身振りをまね、室内で自転車を乗り回し、バスケットボールに興じたりする。

  

『映画史』2Bに差し挟まれたシュザンヌ・ラングランの写真が示唆するように、ゴダールにおいて、運動する身体は男性のものだけではない。『新ドイツ零年』に陸上選手のカトリン・クラッベが一瞬登場したり、『ゴダール・ソシアリスム』の母親役に元テニス選手カトリーヌ・タンヴィエを起用することからも、ゴダールがスポーツする女性の身体にも関心を抱いていることが察せられる。このテーマは、本論文ではあまり追究しなかったが、地元のバスケットボール・クラブに所属している『めでたし、マリア』のマリー(ミリエム・ルーセル)や、『気狂いピエロ』でボウリングをするアンナ・カリーナの姿などがたちまち脳裏に浮かんでくる。

 

ここで取り上げなかった例も含めれば、ゴダール映画には、テニスをはじめとして、ボクシング、バスケットボール、サッカー、ゴルフ、自転車、体操、水泳、ボディービルといったさまざまなスポーツに関する形象がうごめいている。どれもごく一般的なスポーツだが、『勝手に逃げろ/人生』に出てくる、ホルヌッセンというスイスの不可思議な競技だけは、わたしはゴダール作品を通じて初めて知った。非常にマイナーでいかにもスイス的なこの競技を出してくるあたりに、ゴダールの天の邪鬼ぶりが垣間見える気がする。