les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

3D映画――未来なき発明?

ずいぶん前の話だが、勤務先である関西大学文学部のサイトに、「3D映画――未来なき発明?」と題した小文を寄稿した。ここで読むことができるが、あまり目に付かない場所ということもあり、このブログにも転載しておく。

前エントリーでも触れたように、末尾で言及されているゴダールの『さらば、愛の言葉よ』の3Dの使用法はやはり度肝を抜くものであり、このコラムで挙げている他の作品群とは一線を画している。しかし同時に、『さらば、愛の言葉よ』の映像は、基本的には、左右の映像の視差を、きちんとした立体視を成立させる数値よりわずかに広げることによって、ごく簡単に得られるものでもある。だとするなら、すでに誰かが似たような試みをしていてもよいはずなのだが、寡聞にしてそのような先行例は思い当たらない。思いついても馬鹿馬鹿しくて誰も実行しようとはしなかったのかもしれないし、商業映画の枠組みでそれができるのはゴダールだけなのかもしれない。

■3D映画――未来なき発明?

 2009年にジェイムズ・キャメロンの『アバター』で鳴り物入りの「復帰」を遂げた3D映画は、当初から、否定的な論調で語られがちだった。
 たしかに、テレビへの対抗策として半世紀前に導入されたときの「失敗」をなぜ今さら繰り返すのか、これは入場料の上乗せを見返りに、映画館の上映設備のデジタル化を一挙に進めるための産業の策略なのではないか、そもそも徹頭徹尾、枠取られた平面の体験であるはずの映画に、起伏を「付け加える」という挙措が矛盾をはらむものなのではないか、といった数々の疑問がただちに浮かんでくる。
 しかし、そうした穿った見方を括弧に入れて、ここ数年間の3D映画の試みを思い返してみれば、興味深い作品もけっして少なくない。たとえば、マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』(2011)や、サム・ライミの『オズ はじまりの戦い』(2013)は、物語の単純な魅力もさることながら、3Dによって初期の映画史(それぞれ、メリエスと『オズの魔法使』)を再演するという批評的な試みだった。
 また、ドイツの鬼才ヴェルナー・ヘルツォークの『世界最古の洞窟壁画』(2010)は、南仏のショーヴェ洞窟の曲がりくねった自然の壁に描かれた原始の像をとらえるのに、3Dカメラがどれほど威力を発揮するかを余すところなく示した作品だった。その試みは、アルフォンソ・キュアロンが近作『ゼロ・グラヴィティ』(2013)で、3Dによって無重力空間を効果的に再現(というよりは、むしろゼロからコンピュータで創作)していることと通じるだろう。
 逆に、ヴィム・ヴェンダースの『Pina』(2011)や、クリスティアン・ルブタンの演出したショーを多く含む『ファイアbyルブタン』(2012)が3D作品としてはやや物足りないのは、舞台という枠取られた空間を立体化することの難しさと関係しているのかもしれない。
 ところで、昨年暮れに83歳を迎えた巨匠ジャン=リュック・ゴダールの次回作『言語よさらば』〔邦題はのちに『さらば、愛の言葉よ』となった〕は、3D作品だと言われている。21世紀に思いがけず復活したこの最新のテクノロジーに対して、ゴダールがどのような創意で反応を示しているのか、それを見届けるのが今から待ち遠しい。