les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

アンヌ・ヴィアゼムスキーの『少女』に寄せて

バルタザールどこへ行く [DVD]少女ロベール・ブレッソンの傑作『バルタザールどこへ行く』(1966)のマリー役で鮮烈な映画デビューを飾り、のちに小説家に転じたアンヌ・ヴィアゼムスキーが、およそ40年後にこの作品の撮影期間を振り返って書いた小説Jeune fille (Gallimard, 2007)が、『少女』(國分俊宏訳、白水社)として邦訳されたことを祝福したい。
この小説については、2008年に『バルタザールどこへ行く』の新版DVD(発売元:IMAGICA TV/販売元:紀伊國屋書店)が発売された折に、付属の解説冊子の中でやや詳しく紹介したことがある。場合によっては自分で訳してもいいとさえ思っていたのだが、書肆を説得するには至らずそのまま断念したという、多少の思い入れがある本の一冊だっただけに、このたびの邦訳によってより多くの読者を獲得することになるであろうことはいっそう喜ばしい。以下、解説冊子から、発売元と販売元の許諾を得て、本書に関連する部分(の一部)だけを抜粋して公開することにしたい。本書を手に取る一助となれば幸いである(なお、文中では題名は『若い娘』と訳してあり、ノンブルはすべてガリマールの単行本のものである。また、現在パリに幽居中のため、訳書は残念ながらまだ手に取っていないことをお断りしておく)。

 これまでにも何度か言及したヴィアゼムスキーの小説『若い娘』Jeune fille (2007)は、『バルタザールどこへ行く』出演時の体験を振り返った小説である。「小説」と銘打たれている以上、書かれている出来事のすべてが真実であると考えることはできないし、とりわけ主人公の「わたし」の言動や行動、そしてとりわけ内面的な感情に、小説的な肉付けがなされていることは疑いない。しかし、ブレッソンをはじめ関係者のほとんどが実名で登場し、他の資料との不整合もあまり見当たらないことから、映画撮影に関するエピソードにはほとんど脚色はないと考えられる。ともあれ、18歳のヴィアゼムスキーの目に映った限りでの映画撮影の世界の描写が、この小説のおもしろさに大いに寄与していることは間違いない。
 この小説は、悩み多き思春期の娘が、ブレッソンの映画に出演するという特権的な体験を経て、精神的・感情的な成長を遂げる一種の教養小説であると言える。物語の主軸を成しているのは、ヴィアゼムスキーとブレッソンのあいだの穏やかにして強烈な感情的関係の変遷である。出演が決まったとはいえ、自分が何者であるかも分からず、漠とした不安に苛まれる彼女にとって、ブレッソンはまず全面的な傾倒の対象として登場する。「彼に再会するやいなや、不安は消え去っていった。彼は細やかな心遣いをしながらわたしと話し、わたしを、彼だけが感知できるさまざまな素質に恵まれた大事な存在とみなしていた。わたしは突然、誰かのために存在していたので、わたしは初めて、自分が存在していると感じた」(51頁)。しかし、撮影開始前から、ブレッソンはヴィアゼムスキーを絶えず賛美し、さらには唇にキスしようとさえするので、彼女は「不安と恥ずかしさと引き込まれるような魅力と欲望」の入り交じった「漠とした居心地の悪さ」(75頁)を感じるようになる。
 ブレッソンは、彼女が同世代の友人たちと交わることを極度に嫌がり、パリ近郊ギュイヤンクールで撮影が始まってからは、出番がないときでも彼女を自分の傍らにとどめ、夜は撮影に使う家の二階で一緒に下宿することになる(ブレッソンが連れてきた二匹の猫も一緒だった)。ヴィアゼムスキーは自分の寝室に行くためにはブレッソンの部屋を通り抜けなければならなかった。持ち主の夫妻との夕食が終わると、ブレッソンはたびたび、ヴィアゼムスキーを庭園での散歩に連れ出す。そこで繰り返されたのは、次のような場面だった。


初めのうちは、わたしの腕を取ったり、両手をなでたり、額や頬に軽く触れるだけにとどめていた彼は、突然、立ち止まって、愛情のこめられた目で私を見つめるので、わたしは内心、ぞくぞくしていた。ついにわたしは誰かのために存在するのだ――それも、日を追うにつれてますます崇拝の念が強まっている男性のために。しかし、彼がわたしにキスしようとする、あの不愉快な瞬間がやって来た。彼を受け入れて、望みのものを与える方がよかったのかもしれないと本当に思う――おそらく、キス以外の何も望んでいなかったのだから。でも、彼の唇が触れるやいなや、わたしはぞっとして、顔を背けた。彼は無理強いはせず、とても悲しそうな様子でわたしを見つめるので、わたしはただちに気がとがめた。この場面を避けることができずに、またもや彼を苦しませてしまったことに。「思わせぶりな女」という言葉がわたしの頭の中で行き交っていた。(90-91頁)

 このような状況を打破するために、小説の主人公は、ある策略を実行に移す。ブレッソンの目を盗んで、すでにある若手スタッフとの無邪気な恋愛遊戯に興じていた彼女は、週末、両親の家に戻るという口実で、パリに出かけて彼とデートしようとたくらむ。ブレッソンの激しい抵抗にもかかわらず、母親とも結託して何とか許可を得た彼女は、デートの末、処女を喪失する。こうして「深遠な変貌」(114頁)を遂げた彼女は、夜の散歩中のブレッソンの誘惑をきっぱりと断ることができるようになる。また、後にブレッソンが彼女に、長年の付き合いのある中世の専門家の若い妻に抗しがたい魅力を感じてしまったことを明かして、「もし君がもっとわたしにやさしくしてくれなければ、もし君がほんの少しだけでももっとわたしを愛してくれないなら、わたしも君を愛することを止めて、彼女を愛するようになってしまうだろう」と脅し文句を並べたときにも、ヴィアゼムスキーは残酷なまでの機敏さで、ただちに「すばらしい考えだわ、その方を愛しなさい!」と答え、途方に暮れたブレッソンをひとり闇夜に置き去りにして、床に就くのである(130-131頁)。
 こうしていわば感情面で対等の関係となった二人は、芸術面でのよりいっそう強い絆で結ばれることになるだろう。ヴィアゼムスキーは、ブレッソンの「モデル」を完璧に体現し、たとえばヴァルテル・グレーンの台詞を代わりに読んでお手本を示すように求められたときも、「彼からわたしへと神秘的なまでにうまく気持ちが流れて」(148頁)、グレーンがあれほど難儀していた台詞を、ブレッソンの望むとおりに読むことができるのだ。彼女は、週末に家族のもとに久しぶりに帰っても、もはや自分がよそものであるかのように感じ、ギュイヤンクールに戻ったとき、ブレッソンに涙ながらに「あなたがいなくて寂しかったのよ!」と訴えることになるだろう(185頁)。やがて、九月になると、パリ近郊での撮影が終わりに近づき、オート=アルプ県での撮影が視野に入ってくる。しかし、学業に戻る期日があらかじめ決まっていたので、ヴィアゼムスキーにはあと一週間しか残されていない。小説は、ブレッソンが校長や母親を言葉巧みに説得して、彼女の滞在期間を三週間に延ばすことに成功する場面で終了する。自慢げに笑うブレッソンは、ヴィアゼムスキーの目にも喜びを読み取り、「うれしいだろう?」と問いかける。そして、彼女は、ジャックとマリーの再会のシーンを反復するかのように、撮影で使われたあの木製のベンチの上で、反射的にブレッソンの首に抱きつき、「ええ、ロベール、とっても!」と返答するのである(214-215頁)。清浄にして幸福感に満ちた結末と言うべきだろう。
 ヴィアゼムスキーの筆は、謎に満ちたブレッソンという監督とのいわく言い難い共犯関係を描写するときに最も冴えわたっているが、映画撮影の具体的な細部の描写がこの小説に魅力的な奥行きを与えていることも間違いない。フロランス・ドゥレの仲介で初めてブレッソンと会ってから出演が決まるまでの、度重なる電話での会話や、ブーローニュのスタジオでのフィルム・テストの様子、出演決定後のサマリテーヌでの衣裳選びや、映画館で一緒に『ジャンヌ・ダルク裁判』を見るエピソードなどは、ブレッソンがどれほどの情熱を持って自分の選んだモデルに接したかを読者に伝えると同時に、『バルタザールどこへ行く』という映画の生成過程を教えてくれる第一級のドキュメントでもある。
 また、すでにいくつか紹介したように、この小説は、撮影期間中のエピソードにも事欠かない。ブレッソンがまず画面への出入りや、短い移行シーンから撮影を始め、穀物商とのシーンを最後に残しておいたこと、使用する音楽に、当初はドビュッシー前奏曲《雪の上の足跡》を考えていたこと、撮影監督のギラン・クロケとは必ずしも仲がよいわけではなく、たとえばジェラールによる「誘惑のシーン」では、ヴィアゼムスキーが転ぶ場所に毛布を隠しておくかどうかで激しく対立したこと、平手打ちのシーンでは、ジェラールの方は見せかけにするという手筈になっていたのに、本気で力一杯の平手打ちをくらい、しかもどうやらそのように事前に示し合わされていたこと、穀物商とのシーンでは、度重なる撮りなおしに苛立ったブレッソンが、クロソウスキーに対して非常に辛辣な態度を取ったこと、『フィガロ』紙に載ったヴィアゼムスキーの写真に惚れたゴダールが、もっぱらヴィアゼムスキーと近づきになるために撮影現場を訪れたことなど、この小説には、撮影に参加した者にしか知り得ない貴重で興味深いエピソードが満ち溢れているのである。
 ヴィアゼムスキーはすでに2000年に、ブレッソンについてこう語っていた。「彼が亡くなってから、私はより頻繁に彼のことを考えるようになりました。彼は本当に謎めいた人物だと思います。(…)私たちは、ブレッソンの外見以上のことを知らないのです。彼の上品さ、端麗な容姿、洗練された礼儀のよさ、悪ふざけが好きでとても面白い性格の背後で、ブレッソンとは誰なのか? 私には分かりません。いろいろな仮説を立てざるを得なくなるのが好きです。ブレッソンは、他のどの映画作家にも増して、小説的な人物です」*1。『若い娘』によって、私たちは1965年の夏の活気に満ちた撮影現場に連れ戻されるとともに、ブレッソンという謎めいた人間をより身近に感じ取ることができるようになった。しかし、謎は、解決されるというよりも、言うなれば白日の下にさらされた謎として私たちの周囲を旋回し続けている。畢竟、『バルタザールどこへ行く』という恐るべき作品が私たちに垣間見せる深淵は、それを作った人物の肖像によっては埋めようのないものだ。私たちはこれからも何度となく作品そのものに立ち戻りながら、ブレッソンという謎を謎として延命させ続けていかざるをえないだろう。

初出:『バルタザールどこへ行く』DVD解説書(発売元:IMAGICA TV/販売元:紀伊國屋書店

*1:Hommage à Robert Bresson, Cahiers du cinéma, nº 543, février 2000, p.19.