les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

北野武の展覧会

この4月から1年間の在外研究の機会を得て、短い滞在を除けばおよそ6年半ぶりのパリを満喫している。日本から持ち込んだ仕事にも取りかからなければならないし、滞在中に進めたいプロジェクトも溜まっているにもかかわらず、つい目先の誘惑に身をゆだねてしまう毎日である。

さて、北野武がこの3月にフランス芸術文化勲章コマンドゥールを受賞したことは日本でも広く報道された通りである。日本でつい最近封切られた新作の『アウトレイジ』をこちらで見られるのは当分先のことになりそうだが(なにしろ前作の『アキレスと亀』が3月にようやく封切られたばかりなのだから)、パリのカルチエ財団では、北野武の展覧会《Gosse de peintre》(日本語での展覧会タイトルは「絵描き小僧」とされているが、直訳すれば「ペンキ屋のガキ」)が2010年9月12日まで開催されている(日仏英三カ国語による展覧会カタログが出版されている)。

Gosse de peintre / 絵描き小僧

Gosse de peintre / 絵描き小僧

「絵描き小僧」と題されているとはいえ、この展覧会の中心を占めるのは、(『HANA-BI』などでもその一端がみられる)絵画作品であるよりはむしろ数々の子供じみたガジェットである。実際、展覧会場そのものが一種の縁日のような場として構想されており、4月下旬の復活祭の休暇の頃に展覧会を訪れたら、会場は小学生くらいの子供たちでいっぱいであった(北野武ブラック・ユーモアが教育的であるかどうかははなはだ疑問ではあるが)。ガジェットそのものはさして高く評価できるような代物ではないが、そこに垣間見られる遊戯性と死の欲動の二面性が彼の映画作品と通底しているところが興味深い。

そのような趣旨で、ベルリンを拠点としたドイツの雑誌CARGOの第6号に以下のレビュー記事を寄せた(ドイツ語は書けないので、元原稿は英語である)。

Junji Hori, "Deadpan: Anmerkungen zu Takeshi Kitanos Ausstellung « Gosse de peintre » in Paris", CARGO Film/Medien/Kultur 06, p.40-43.

ベルト・レープハンドルらによって2009年に創刊されたばかりのこの季刊誌は、映画を中心とした文化現象を幅広く取り扱った意欲的な雑誌であり、たとえばこれまでの号ではマルコ・ベロッキオ、ブリランテ・メンドーサ、オリヴィエ・アサイヤス、トーマス・ハーランのインタヴューなどが掲載されている。

ところで、映画監督が美術館にある程度の広さの空間を与えられて展覧会を構想すると言えば、わたしが実際に見た範囲では、アニエス・ヴァルダの《島と彼女》展(カルチエ財団、2006年)や、ジャン=リュック・ゴダールの《ユートピアへの旅》展(ポンピドゥー・センター、2006年)がただちに思い浮かぶ*1。記事には盛り込まなかったものの、そのあたりの比較を試みてもおもしろかったかもしれない。『みんな〜やってるか!』や『監督・ばんざい!』の破滅ぶりはゴダール展の自己破壊に一脈通じるところがあるし、ヴァルダの展覧会も遊戯性と死のモチーフの同居という一点においては共通性があると言いうるからだ。しかし、北野武の展覧会に関して言えば、それなりに興味深いものではあるとはいえ、やはり彼の映画作品の強度には遠く及ばないと感じた。北野武はやはり何と言っても切断と持続の操作に関して卓越しているのであり、時間的要素よりも空間的要素が前面に出る展示スペースでは力量を発揮しきれなかったのではないかという気がしてならないのである。


*1:ゴダールの展覧会に関しては、拙論「美術館のゴダール——《ユートピアへの旅》をめぐって」(『未來』、2006年10月号、481号、34-37頁)、あるいはより詳細な「ポンピドゥー・センターのゴダール──《ユートピアへの旅》をめぐる覚書」(『関西大学文学論集』第56巻第3号、2007年1月、111-133頁)を参照して欲しい。後者は、全文のPDFファイルをここからダウンロードできます。