les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ル・フレノワについて(1)

フランスのリール近郊に、ル・フレノワ国立現代アート・スタジオという施設がある。映像を使った現代美術のアーティストを養成する教育機関でもあり、年に4回ほど意欲的な展覧会(うち1回は在籍するアーティストたちによる作品展)を催す施設でもある。20年代の古い娯楽施設にすっぽりと覆いをかぶせた斬新な設計は、パリのラ・ヴィレット公園でも知られるベルナール・チュミの設計によるもの*1。ル・フレノワにはパリからだと北駅からTGVで1時間半程度とアクセスもよく(リールからはそのまま国鉄でルーベまで行くか、無人運転では確か世界最長の地下鉄でアルザス駅まで行けばよい)、昨年度の一年間で結局3回ほど足を運ぶことになった。


最初に訪れたのは、昨年の2月から4月にかけて催されたティエリー・キュンツェルとビル・ヴィオラを組み合わせたヴィデオ・アートの展覧会である(Thierry Kuntzel - Bill Viola / Deux éternités proches, 26 février-24 avril 2010。カタログも出ている)。レイモン・ベルールのキュレーションによるこの展覧会は、広い空間を贅沢に使って、キュンツェルの《La Peau》(2007)、《Time Smoking a Picture》(1980)、《Echolalia》(1980)と、ヴィオラの《He Weeps for You》(1976)、《Reasons for Knocking at an Empty House》(1983)、《The Reflecting Pool》(1977-79)をそれぞれ対比させ、それにキュンツェルの《Hiver (La Mort de Robert Walser)》(1990)を加えた7作品を展示する。

最も興味深いのは、シングルモニターの映像作品よりも、2つのインスタレーションだろう。ヴィオラによる《He Weeps for You》(1976)は比較的よく知られている。水滴がしだいにふくらんだ挙げ句に落下し、太鼓の皮に落ちる音が増幅されて空間に響き渡る。他方で、ふくらんでいく水滴に映り込む観客の反転像が、リアルタイムで奥の壁に投影される。「水」というヴィオラ的なテーマが、ヴィデオのリアルタイム性、およびリズミカルな音響と組み合わされた、単純でありながら豊穣な作品である。

他方、キュンツェルの最後から二番目の作品となった《La Peau》(2007)は、巨大な横長のスクリーンに、文字通り、拡大された人間の皮膚(peau)の映像が非常にゆっくりと流れていく。おそらくキュンツェル自身のものも含めた多くの人の皮膚の映像が、コンピュータ加工によって、切れ目のない一続きの映像に仕立て上げられているのだ。5メートルの70ミリ・フィルムに乗せられた皮膚の映像は、技術的には、PhotoMobileという特殊な上映装置によって、45分間かけて、やや湾曲した横幅7メートルの巨大なスクリーンに映し出されている。

この作品の面白さを理解するためには、キュンツェルの理論家としての仕事を振り返った方がよい。1948年生まれで、2007年に早すぎる死を迎えたキュンツェルは、まずはいくつかの映画理論の仕事によって認知された。彼の映画理論は、映画作品の分析に付随する諸問題を考察する、いわばメタ分析的な構えを持っている。フロイトの「夢の作業」に映画の分析をなぞらえた「フィルムの作業」のシリーズが代表作ということになるだろうが*2、むしろ「Le défilement」と題されたより短い論文の方が刺激的だ*3

「défilement」とは、映写機の機構の中を映画のフィルムが滑走していくことを意味する用語である。キュンツェルは、ペーテル・フォルデスの短編アニメーション『小鳥の食欲』Appétit d'oiseau (1964)を題材に、物理的なフィルム・テープという意味でのフィルム(film-pellicule)と、上映された作品という意味でのフィルム(film-projection)の関係を探っていく。彼の着想の根幹にあるのは、前者を映画作品の意味生成の場、フロイト的な「抑圧」のメタファーによってもとらえられるような場ととらえ、前者から後者へと至る過程、すなわちフィルムを「défiler」させて運動状態に置くということに、意味生成のプロセスの消去を見て取るという観点である(défilementのもう一つの、軍事的な意味は「遮蔽物の活用」であり、フォトグラムを観客の視線から隠すという意味合いをうまく伝えている)。また、アニメーションという分野が、フィルムの1コマ1コマが制作者によって意識的に作られているという点で、通常の映画作品以上に、「film-pellicule」という場を前景化するのにふさわしいものであることは言うまでもない。

「フィルム」のこのような2つの側面を考慮に入れて《La Peau》を見直せば、この作品は、まさに「film-pellicule」と「film-projection」が完全に一致した希有な例であることが分かるだろう。5メートルの70ミリ・フィルム上の一続きの映像が、不可視な部分を残すことなく、くまなく上映されるからだ。そもそも、「皮膚」peauと「フィルム」pelliculeは、語源を同じくしている。30年以上前の論考では、2つの「フィルム」はいわば階層的な関係にあり、抑圧された「film-pellicule」を前景化するという身振りに一種の価値転覆を読み取ることも可能だっただろう(しかも、それは映画の「分析家」にしか許されない特権的な行為だった)。だが、いまや映画を停止させることは日常的な身振りにすぎない。だとするなら、徹底して表層にとどまり、2つの「フィルム」が完全に一致しているためにもはや抑圧も、謎も、深層もないさまを白々しく見せつけるほかないのももっともなことだろう。

なお、アンヌ=マリ・デュゲがプロデュースするアナルシーヴ(Anarchive)シリーズの第3巻Title TKに収められたDVD−ROMは、キュンツェルの膨大な仕事を見渡すのに最適である(このサイトで購入できる。また、第2巻のDigital Snowは、マイケル・スノウのDVD−ROM)。また、キュンツェルの《秋》と題された作品が、京都の真如堂という、かつてイヴ・クラインが修行に訪れたこともあるらしいお寺の庭、借景をたくみに利用した美しい庭で撮影されていることも付け加えておこう。


次に訪れたのは、《現代ベルギー美術》(Art Belge Contemporain)、略して《ABC》と題された、ドミニク・パイーニのキュレーションによる昨年の秋の展覧会である。一国の多様な現代美術シーンの全体を特徴づけるという暴挙を果敢に引き受けながら、パイーニは、コンセプチュアル・アートやミニマル・アートの流れと、バーレスク的な愚かさすれすれのポスト・ダダイスム的な流れの同居こそが現代ベルギー美術を特徴づけているとする(Dominique Païni, « Méditatif et burlesque », artpress 2, nº 19, Nov./Déc./Jan. 2011, pp.9-21.)。パイーニに従えば、その典型的な例は、ステファン・デーデンによる《Billy》(2006)という作品、IKEAの同名の本棚と寸分違わぬ本棚を職人たちの手作業によって作り直した「作品」である。

この展覧会には40点以上の作品が所狭しと詰め込まれているので、他の具体例を挙げ始めると切りがなくなるが、バルザックやアンソールやアラファトに変装した写真シリーズで知られるエミリオ・ロペス・メンチェロ、『ダブル・テイク』でヒッチコックのそっくりさんを追ったヨハン・グリモンプレ(ただし、出品作は別の作品)、パナマレンコの飛行船、盲人のふりをして美術館を見学するレオ・コペルスなど、無作為にいくつかの作品を思い浮かべるだけでも、ミニマルであるかどうかはともかく、どこか人を食ったユーモアがゆるやかな共通点として浮上することは確かである。広く言えば、ルネ・マグリットからマルセル・ブロータースを経てヤン・ファーブルに至る流れにも見られるような「ベルギー的」な共通の毒気が感じられるといえば感じられるのだ。

ここでは、映像系の作品を2つだけ特記しておきたい。一つはドミニク・カストロノーヴォとベルナール・セコンディーニによる《Tout vite tout voir tout avant de disparaître [tentative de voir un maximum de films en un minimum de temps]》という作品。これは7時間14分にわたって、1241に及ぶ映画作品の各ショットから25分の1秒ずつの一枚の画像を抽出し、連結させたヴィデオ作品で、リュミエールやメリエスの初期映画から、ティム・バートンの『不思議の国のアリス』に至るまで、いかにもヨーロッパ中心主義的な「作家の映画」が重点的に選択されている(大体1作品が20秒程度で展開する計算になる)。ここまで大規模にやられると、コンセプト以前に思わず失笑してしまうというのが正直なところである。

もう一つは、ダヴィッド・クレルボ(David Claerbout)*4の《Long Goodbye》(2007)。ティーセットを持って邸宅前のテラスに出てくる中年の女性が、カメラの方を向いて何者かに別れを告げるかのように手を振るさまを、非常にゆっくりとした後退ズームでとらえた12分ほどの作品だ。しかも、全体が均一にスローモーションになっているわけではなく、葉叢や影の動きは明らかに異なる時間の流れ方をしているので、同一空間内に複数の時間の層が重なり合っているのだ。巧まざるユーモアさえ醸し出すこの空間と時間の省察は、「現代ベルギー美術」の枠を超えて、非常に印象に残った。

(続く…かもしれない

*1:ついでに言えば、チュミはジャン=リュック・ゴダールの『映画史』における「ポルノグラフィー」と「エロティスム」に焦点を当てた「相互衝突」という短いテクストを書いてもいる(拙訳により、四方田犬彦堀潤之編著『ゴダール・映像・歴史』産業図書、2001年所収)。

*2:Thierry Kuntzel, « Le travail du film », in Communications, 19, 1972, pp.25-39および« Le travail du film, 2 », in Communications, 23, 1975, pp.136-189.どちらもウェブ上で入手できる。

*3:Thierry Kuntzel, « Le défilement », in Dominique Noguez (dir), Cinéma, théories, lectures, Klinksieck, 1973, pp.97–110.

*4:以前のエントリーではさしたる根拠もなく「クラエバウト」と表記したが、「クレルボ」表記が多いようなのでそちらに合わせておく。