les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』覚書(2) ゾエ・ブリュノーの撮影日誌

ゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』で映画に初出演した女優ゾエ・ブリュノーが、出演に至るまでの過程も含めて、ゴダールとの撮影がどのように進んだかをつぶさに記した『ゴダールを待ちながら』という本を出している(Zoé Bruneau, En attendant Godard, chapitre I, chapitre II, Editions Maurice Nadeau, 2014)。

フランスの高名な批評家・作家モーリス・ナドーの孫でもあるブリュノーの筆致は軽妙で、彼女にとっては祖父母の世代に近いゴダールは、ヌーヴェル・ヴァーグの神話的な映画作家というよりは、芸術的な意味では称賛に値するとはいえ、いたずらっぽい好々爺にすぎないかのようだ。

ゴダールを待ちながら』の一部は、今月末に発売される『ユリイカ』2015年1月号の「ゴダール2015」特集に抄訳されることになっている(訳は長野督氏による)。その「予告篇」のようなものとして、ここでは本書の読後感をいくつか記しておく。

ゴダールはときどき俳優に突飛なトレーニングを要求する。たとえば、『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)の主演女優マリナ・ヴラディに「何をすればいいの?」と聞かれたとき、撮影現場までタクシーではなく徒歩で来いと真剣に答えたり、アンナ・カリーナにも、新聞の社説を音読せよ、と言ったりしている。

ゾエ・ブリュノーに対しては、聾唖者の真似をしてシナリオの一部を朗読するという課題が与えられたようだ。ニコラ・フィリベールのドキュメンタリー『音のない世界で』を参考のために見るように言われてもいる。聾唖者という設定は、最終的な映画では、吃音に姿を変えていて、しかもその要素もかすかな痕跡が残っているだけだ。

しかし、2012年の末頃から2013年の上半期の間に作られたとおぼしき『さらば、愛の言葉よ』の最初の予告篇には、聾唖者の真似をして「「われ思う、ゆえにわれあり」において、「われあり」の「われ」はもはや「われ思う」の「われ」と同じではない」というゴダールがよく引く文章を口にするゾエ・ブリュノーのテスト映像が挿入されている(ブリュノーの撮影初日は2013年5月20日であり、それ以降に撮られた映像はこの予告篇では使われていない)。

ちなみに、この予告篇は2013年の夏頃には誰でもYouTubeで見ることができたが、残念ながら、今ではネット上では流通していないようだ(ダウンロードしておいてよかった)。予告篇の冒頭には、撮影を担当したファブリス・アラーニョがキャノンの一眼レフカメラを二つ組み合わせて自作した装置も出てくる(『3×3D』のゴダール篇『3つの災厄』のあるパートでは、このカメラがほとんど主役級の扱いで出てくる)。

本書を読むと、製作担当のジャン=ポール・バッタージャと撮影担当のファブリス・アラーニョ(『さらば、愛の言葉よ』のスタッフはこの2人ですべてだ)の功績がいかに大きいか、改めて認識させられる。

パリでのゴダールの拠点は、北駅付近にあるバッタージャのアパルトマンであるようだし、そこでゴダールぬきでカメラテストが行われたり、ゴダールからの指示が彼を経由して俳優たちに伝えられたりする。ゾエ・ブリュノーに言わせれば、バッタージャは「ジャン=リュックのどんな小さな欲望、期待、あるいは気まぐれを満足させ、さらにはそれらの先を越そうと一生懸命」(p.77)であり、「彼のベビーシッター」(p.83)でさえある。ついでに言えば、『ゴダール・ソシアリスム』の第2楽章でフロリーヌを演じるマリーヌ・バッタージャは、たぶん彼の娘なのではないか。

ファブリス・アラーニョは、『アワーミュージック』(2004)の《天国篇》の制作担当として、エキストラを集め、ロケハンし、米兵のひとりとして出演もしたのが、ゴダールとの最初の関わりであるらしい。彼は続く長篇作品の『ゴダール・ソシアリスム』(2010)と『さらば、愛の言葉よ』の撮影監督として、デジタル・ゴダールの映像のテクスチャーを定めるのに大いに貢献することになる(これまたついでに言えば、彼の子供たちもオリーヴ畑をどんどん歩いて行くのを後ろからGoProカメラでとらえたシーンに登場する)。



『さらば、愛の言葉よ』の斬新な3D撮影をきっかけに、いくつものアラーニョへのインタヴューがなされている。アダム・クックによる2012年の先駆的なインタヴュー、『フィルム・コメント』誌の最新号に映画評とともに載っているポール・ダラスによるインタヴュー、『カイエ・デュ・シネマ』誌に載ったインタヴューを元にした記事(Fabrice Aragno, « Le lac et le désert », propos recueillis par Gaspard Nectoux, Cahiers du cinéma nº 702, juillet/août 2014, p.22-23)などが比較的アクセスしやすいだろう。

下の写真は、ゾエ・ブリュノーが撮影中に撮ったもの(p.93)で、ゴダールがカメラを意識して、アラーニョの頭に蹴りを入れるふりをしている。撮影時の良好な雰囲気を伝える魅力的な一枚だ。



(Zoé Bruneau, En attendant Godard, chapitre I, chapitre II, Editions Maurice Nadeau, 2014, p.93より引用)

ゾエ・ブリュノーの本には、『さらば、愛の言葉よ』のもうひとりの主演女優エロイーズ・ゴデもたびたび登場する。映画では、わざとふたりの区別がつきにくいように撮影されているように思えるが、実際、ブリュノーが最初に彼女に会ったときにも、自分と似ていると感じたそうだ。

主に英語圏の雑誌やウェブサイトなどでのスチル写真のキャプションで、ふたりが混同されていることが非常に多いのも無理はないのかもしれない(たとえば、Artforumの映画評では、鉄格子の後ろにいるイヴィッチ(ブリュノー)の写真に、しっかり「ジョゼット(エロイーズ・ゴデ)」と書かれている)。わたしは何度も見るうちに完全に区別がつくようになったが、そうなると、かえって見分けがつかずに混沌としていた頃がなつかしい。

ところで、エロイーズ・ゴデの口元には、何らかの傷跡が特殊メイクによって付加されている。これをゴダールは「兎口」bec-de-lièvre(おそらく「口唇裂」と呼ぶ方が一般的だろう)と呼んでいて、ふたりの女優のどちらにそれを付けるか考案していたらしい。ゴデが『カイエ・デュ・シネマ』誌に寄せたより短い撮影日誌を読むと(Héloïse Godet, « Journal de bord », Cahiers du cinéma nº 701, juin 2014, p.28-32)、わざわざ特殊メイクのプロをパリから呼んで、この「兎口」を付けさせていることが分かる。下のクロース・アップのシーンは、せっかく付けた「兎口」がどうもあまり目立たないので、わざわざ撮り足したものなのだという。なぜそこまでして「兎口」の傷跡らしきものを付けたがったのか、おそらく何らかの言語障害を示唆しているのだろうが、そのことは『パッション』(1982)のイザベル・ユペールという先例がある吃音以上に謎めいている。

本書で最も滑稽なエピソードは、企画の立ち上がりの段階の2011年6月初旬に、パリのバッタージャのアパルトマンで面会したときのヌード撮影をめぐるやり取りかもしれない。

ゴダールはゾエ・ブリュノーの身体を見たいと言い出し、彼女も隣室に行って脱ごうとするが、ゴダールはそれを制止し、写真を送ってくれればよい、というようなことを言い出したりもする(それもどうかと思うが)。そのあとに続くやりとりを少し引用しておこう(ちなみに、この個所は『ユリイカ』の抄訳には含まれていない)。

彼〔ゴダール〕はわたしが脱毛しているかどうか尋ねる。そう、たまたまわたしは脱毛していた。彼は女性について、世界の起源について、世界そのものについて、長々と話をする。

——アパッチ族は世界を何と呼んだか? 森、と呼んだんだ。それから《世界の起源》というあの〔クールベの〕絵は、まさに女性の性器を描いているだろ? 世界、茂み、森——まさしく体毛だ! 君のヌードを見たいというとき、つまり「素っ裸の=体毛をあらわにした」〔à poil〕状態で見たいんだよ。そうだろう?

私は譲歩して、ええ、と答えて、はっきりこう言ってしまう。単刀直入に言えば、生えています、毛は……。ああ、よかった! 彼はほっとする。

——また生えさせることができるね? 茂みのように?
——いいえ、レーザーを使ったので……。
——そうか、付け毛を使えるかどうか考えてみよう。
——……。
——それにしても君たちの世代の人たちはまったく問題を抱えているよ……。なぜ何もかも殺菌するのか? 毛もなければ臭いもない。皺もない。理解できんよ。愛し合うとき君たちはどうするんだね?

オーケー、脱毛のせいで役が危うくなることはないのね……。それどころか、わたしの方では、この陰毛かつらのイメージは、友人たちのあいだで一番ウケる冗談話になった。いま思い出しても赤面してしまう。(p.30-31)

ゴダールにおける裸体に関しては、松浦寿輝の『ゴダール (リュミエール叢書)』でもアラン・ベルガラの『Nul mieux que Godard』でもすぐれた表象分析がなされているが、ゴダール作品における「茂み」に注目したことがあるのは、わたしの知る限り、アルベルト・モラヴィアの『カルメンという名の女』(1983)評だけだ。この『軽蔑』の原作者は、ゴダールが「カルメンの太股と腹部のあいだにふさふさしている黒々と生い茂る盛り上がった恥毛」(Alberto Moravia, Trente ans au cinéma, de Rossellini à Greenaway, Flammarion, 1990, p.298)に執着していることを喝破していた。

最後に、犬のロクシーについて。『さらば、愛の言葉よ』には孤独に散歩中の犬のロクシーの姿がふんだんに映し出される。覚書(1)でも記したように、どれもゴダール自身が実際の散歩の際に撮りためた映像だ。

作品中、二組のカップルが実際にロクシーと「共演」することはない(前半、ガソリンスタンドに立ち寄ったときに、乗り込んできた犬を追い払おうとする箇所があるが、画面には犬は映らない)。が、ゾエ・ブリュノーによると、撮影の最終日には犬とのシーンが予定されていたという。映画の後半で、ミエヴィルの声で、ロクシーを家の外に追い出す箇所がある。それに相当するシーンを役者たちを使って撮ろうとしていただけなのか、あるいはより本格的な「共演」を構想していたのか、興味は尽きない。