les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

カナダでのゴダール学会

カナダのサスカチュワン州にあるレジャイナ大学で9月17日から18日にかけて催されたSonimage: The Legacies of Jean-Luc Godardという学会で「ゴダール強制収容所」と題された発表をした。

Junji Hori, "Godard and the Concentration Camps", Sonimage: The Legacies of Jean-Luc Godard, University of Regina, Saskatchewan, Canada, September 17, 2010.

ユリイカ2008年7月号 特集=スピルバーグ 映画の冒険はつづく
内容としては、ゴダール強制収容所についての関心のありようを3つに整理して展望するというもので、部分的に、拙稿「JLGによるスピルバーグ──『シンドラーのリスト』をめぐって」(『ユリイカ』第40巻第8号、2008年7月号、95-101頁)を元にし、大幅に発展させたものである。

学会が行われたレジャイナはサスカチュワン州の州都で、トロントから飛行機で3時間程度のところにある小さな街だ。シカゴやヴァンクーヴァーとも接続しているとはいえ、私が滞在中のパリからはトロント経由で十数時間はかかり、決してアクセスしやすい場所とは言いがたい。2日間で全8パネル、20強の発表が行われるのみというごく小規模な学会だったが、それだけに親密な雰囲気の漂う居心地のよい学会でもあった。

For Ever Godard
ゴダールをめぐる学会としては、2001年6月にロンドンでFor Ever Godardという大規模な催しがあり(以前、『ユリイカ』に参加記を書いたことがある。その後、2004年に出版された同名の論文集には、私も寄稿する機会を得た)、翌年の4月にはアイオワ大学でReading Godard: Intertextuality and the Film and Video Work of Jean-Luc Godardというより小規模な催しがあった(こちらはその後出版物になっていないが、ここにプログラムが保管されている)。今年は、ゴダール生誕80年の節目でもあることから、すでにイタリアのウディーネで2月5日と6日に、Passion Godard il cinema (non) è il cinemaという催しが行われ、ジャン・ドゥーシェアンドレ・S・ラバルト、アドリアーノ・アプラ、レイモン・ベルール、ベルナール・エイゼンシッツ、シリル・ネイラといった顔ぶれが登壇し*1、その議事録はいずれイル・カストロから出るとのことだが(私は不参加だが、この記事などを参照)、レジャイナでのこの学会はおそらく、ゴダールを中心に据えた今年2番目の学術的な集いであるはずだ。

主催者は、レジャイナ大学のクリスティーナ・ソトヤノヴァフィリップ・マテル、レジャイナ在住のセラミック・アーティストのジーニー・マーほかの面々。For Ever Godardの3人の主催者たち(マイケル・テンプルジェイムズ・ウィリアムスマイケル・ウィット*2)が真のゴダール狂いだったのとは異なり、彼らはゴダールの専門家というわけではないが、それだけに彼らにも言葉がきちんと届くかどうかが試される機会だったとも言える。また、そもそもの発案者はジーニー・マーだったというから、レジャイナにおける「タウン&ガウン」の抗争ならぬ友好的関係が垣間見られる。

学会のプログラムはここ、参加者たちのプロフィールはここにそれぞれPDFファイルがあがっているので、興味のある向きには詳しくはそちらをごらんいただくとして、ここではパネル別ではなく、あえて参加者の地域別に、2日間の学会のハイライトを振り返ってみたい。

Jean-Luc Godard (French Film Directors)
Jean-Luc Godard - musicien: Die Musik in den Filmen von Jean-Luc Godard
ヨーロッパからの参加者は、パリ第10大学で教鞭を執り、国際映画批評家連盟の会長に今年任命された批評家でもある基調講演者のジャン・ロワをはじめとして、ジャン・ヴィゴ協会会長も務めるペルピニャン大学のミシェル・カデ、もうすぐドイツ語でGodard musicienという著作が刊行される予定のユルク・シュテンツル、『映画史』についての研究書(Histoire(s) du cinéma de Jean-Luc Godard : la force faible d'un Art, L'Harmattan, 2006)の著者にして、この作品の「楽譜」の作成者でもあるセリーヌ・セママ、そしてイギリスからはゴダール入門書(Jean-Luc Godard, Manchester UP, 2005)の著者であるウォーリック大学のダグラス・モレーである。

シュテンツルの発表は2002年の短編『時間の闇の中で』の視覚的構造と、そこで全曲が使われているアルヴォ・ペルトの《鏡の中の鏡》(1978)の音楽的構造の類比性を緻密に論じた興味深いもので、聞いているだけでは議論の細部が妥当かどうかは即断しかねるが、ゴダールはECM音源を適当に断片化してちりばめているだけという通念を覆す視点だった*3。他方モレーは、現代フランス映画におけるヌーヴェル・ヴァーグ、とりわけゴダールの遺産をマッピングするという大きなプロジェクトの第一歩として、クリストフ・オノレの『パリの中で』Dans Parisの分析を行った。

The Films of Jean-Luc Godard: Seeing the Invisible (Cambridge Film Classics)
Jean-Luc Godard: Interviews (Interviews With Filmmakers Series)
アメリカ合衆国からの参加者も5名。『クリスチャン・サイエンス・モニター』の映画批評家として鳴らし、ゴダールについての2冊の本の著者・編者でもあるデイヴィッド・スターリットゴダールについての(おそらく)最大のメーリング・リストを十年以上前から運営しているグロリア・モンティ、イェール大学博士課程の俊英ダニエル・フェアファクスなど。最も興味深い発表を行ったのは、映画研究者ではないジョン・カーナハンだった。彼の根本的なアイディアは、イヴォンヌ・レイナーらの1960年代のコンテンポラリー・ダンスにみられるいくつかのヴォキャブラリーと、ゴダール作品のいくつかのモーションを結びつけるというもの。発表は残念ながら途中で時間切れに終わったものの、基本的ないくつかの着想を聞いただけでゴダール作品のいくつものシーンがおのずと浮かび上がってくるという秀逸な発表だった。私はゴダール作品におけるスポーツの形象を総覧した「運動家ゴダール」という論考を書き上げたばかりだったので(年度内にミネルヴァ書房から出るはずのある論集のために)、この視点はよりいっそう斬新に映った。

Cinema, Memory, Modernity: The Representation of Memory from the Art Film to Transnational Cinema (Routledge Advances in Film Studies)
残りはカナダからの参加者だ(7名+レジャイナ大学の学生3名)。9年ぶりに再会したモントリオール大学の俊英アンドレ・ハビブは、2006年のポンピドゥー・センターでの展覧会《ユートピアへの旅》を中心に、ゴダールの「失敗の系譜」をたどるという発表を行った*4。他にも、ゴダールについての貴重な情報源CINEMA=GODARD=CINEMAを運営しているトロントのグレン・ノートンが、60年代ゴダールに批判的だったスタンリー・カヴェルの哲学を介して『女と男のいる舗道』や『はなればなれに』を読解するという啓発的な視点を提示したり、記憶の表象についての著書を上梓したばかりのラッセル・キルボーンは、ゴダールにおけるオルフェ的な形象について、コクトーの『オルフェ』のリメイクとも見なせる『愛の世紀』でのスピルバーグ批判を絡ませながら充実した発表を行うなど、いくつか興味深い発表があった。

刺激を受けた発表は他にもあったが、内容に関してはこのくらいにしておこう。この学会に参加して思ったのは、やはり学術的な集いというのは、少人数の組織者たちの責任で限定された明確なテーマを定め、発表者を一度限りで公募し、その上あまり巨大すぎない方が、刺激的で実りのあるものになることが多いのではないか、ということだ。会員制の学会単位で恒常的かつ継続的に全国大会を運営するという仕組みにもいろいろな利点はあるはずだが、日本のようにそれがデフォルトであるという状況が最良であるとはあまり思えない。隣の芝生は青いということにすぎないのかもしれないが、学会終了後に立ち寄ったトロントの街を散策しながら、そのような感想を抱いた次第である。

*1:ベルールの発表は、ウルマーとジオドマクらによる『日曜日の人々』(1930)のいくつかのシーンを、ゴダールが『新ドイツ零年』や『映画史』や『あるカタストロフ』で繰り返し引用していることに注目したもので、『日曜日の人々』をめぐる彼の小著に収められているものとほぼ同内容とのこと。

*2:ゴダール・映像・歴史―『映画史』を読むJean Cocteau (French Film Directors)Godard (BFI Silver)The Cinema Alone: Jean-Luc Godard in the Year 2000 (Film Culture in Transition Series)ウィリアムスとテンプルの編集によるThe Cinema Alone (2000)は新世紀のゴダール研究の幕開けを告げるなかなか質の高い論集だった。ちなみに、モレーから伝え聞いたところによると、マイケル・ウィットは20世紀の歴史家としてのゴダールの肖像を描いた単著をすでに脱稿したそうで、刊行が待ち遠しい。他方、マイケル・テンプルもゴダールについての単著を準備中とのこと。テンプルは、最近、新版が出版されたリチャード・ラウドの『ゴダール』(邦訳は『ゴダールの世界』、柄谷真佐子訳、竹内書店、1969年)に序文を寄せてもいる。ウィリアムスはその後、コクトーについてのすぐれたモノグラフを書いている。なお、ウィットとウィリアムスの『映画史』論は、拙訳により『ゴダール・映像・歴史』(四方田犬彦堀潤之編、産業図書、2001年)に収められている。

*3:10ミニッツ・オールダーこの作品については、以前、ごく短い解説を書いたことがある(『10ミニッツ・オールダー 公式読本』、エスクァイア マガジン ジャパン、2003年11月、86-89頁)。また、「映画の最後の瞬間」のセクションで、ゴダールが『映画史』3Bの最後の方(23分くらいのところ)でも引用している、機械仕掛けのスクリーンが、舞台上で、風に揺られているかのような複雑な動きをしてみせる映像が出てくるのだが、そのベケット風でもあり、ティンゲリー風でもある代物がいったい何なのか長らく不思議に思っていた。シュテンツルは、セリーヌ・セママの「楽譜」に基づいてMummenschanzの演し物ではないかと言うのだが、どうも怪しい。アントワーヌ・ド・ベックの伝記によれば(p.782)、ドミニク・パイーニがル・フレノワで1997年秋に企画したProjections, les transports de l'imageという展覧会に出品されている、パトリック・ボカノフスキーと彫刻家ピッチのインスタレーションであるとしており、カタログの記述を読む限りでは信憑性は高い(pp.180-183)。何とかこの目で確かめる機会を得たいものである。

*4:彼はケベックのオンライン・ジャーナルHors champにも2006年に"Invitation au voyage"という記事を書いているほか、Cinéma et Cie, Vol.IX, no.12, Spring 2009にも、セリーヌ・ガイユール(彼女の別の文章は、日本語でここでも読める)らの論考とともに展覧会についてのより本格的な論考を寄せている。毀誉褒貶のあるこの展覧会を、最も力強く擁護している人物であるとも言える。この展覧会については、以前、ちょっとした論考を物したが、その後にも多くの言説が産出されている。Mayという雑誌にインサイダーの視点からの記事を書いているアンヌ・マルケスが、展覧会についての本を出すという話もあるようだ。