les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

パリ第3大学でのサマースクール

パリ第3大学の主宰で、6月28日から7月9日にわたって開催されたサマースクールで以下の発表をした。

Junji Hori, "Cinéma, photo, regard: autour de Self and Others de Makoto Sato", Université d'été de l'Université Sorbonne Nouvelle-Paris 3, Institut National de l'Histoire de l'Art (INHA), Paris, 7 juillet 2010.

発表内容は、佐藤真の『阿賀に生きる』(1992)と『SELF AND OTHERS』(2000)の「写真」を介した密接な繋がりを指摘しながら、前者に登場する2つの写真のシーンと後者の写真集を提示する場面を分析するというもの。『写真空間』連載の番外編といった感じである。たどたどしい外国語での発表なので、さすがに丁寧なパワーポイントのファイルを作成した(ちなみに、フランスではレジュメを配布するという習慣が以前からほとんどなかったが、さすがにパワーポイントを使う人は増えてきたように思う。何も準備しない人に限って、やたら滑舌が悪かったりして聞き手に無用な苦労を強いるのは、洋の東西を問わないが)。

ところで、このサマースクールは、「映画と現代美術3」という総合テーマのもと、23のパネルを中心に、いくつかの講演、作品上映や展覧会見学によって構成されている(全体のプログラムはPDFファイルでここに挙がっている)。2008年からパリ第3大学で開かれていたサマースクールは、最も大規模となったこの3度目で最後になるとのこと。参加者は、ヨーロッパ各国の大学の博士課程の学生や協定校に所属する若手研究者が多いが、わたしが発表していることからも明らかなように、一応、誰でも発表の応募をすることができる。

協定校となっているのは、リエージュ大学(ベルギー)、ルール大学ボーフム(ドイツ)、ポンペウ・ファブラ大学(スペイン)、パリ第7大学、パリ第10大学(フランス)、ピサ大学、ウーディネ大学、サクロ・クオーレ・カトリック大学(イタリア)、ロンドン大学バークベック・カレッジ(イギリス)。次年度からまずは共通の修士の学位取得プログラムが始まるとのことで、そのプログラムに参加する60名ほどの学生が、自分の所属校とは別に、協定校から2校を選んで、半期ずつ留学できるようにするそうである。修士の段階から「放浪」することが必ずプラスになるとは一概には言えないにしても、大変魅力的な枠組みではある(詳しくはここを参照)。

サマースクールとは別に、2006年からイタリアのグラディスカ・ディゾンツォで、2008年からはパリで、パリ第3大学とウーディネ大学の共催でスプリングスクールも開催されており(そちらの総合テーマも「映画と現代美術」であり、いささか紛らわしい)、すでに両者あわせて6冊もの出版物が刊行されている(ネット上では入手困難と思われるが、ここでタイトルや書影を(一応)見ることができる)。

これらすべての仕掛け人とも言える存在が、パリ第3大学のフィリップ・デュボワである。もはや写真論の古典的名著と言ってもよいL'Acte photographique (1982, 90)のあと単著を出していないせいか、あるいは名前がありふれているせいか、彼の仕事は日本ではあまり知られていないように思うが、現在のフランスの映像研究の分野における最も優れた知性の一人と言っていいだろう。編著であるLe cinéma et la dernière technologie (1998)や、Recherches sur Chris Marker (2002)も非常に質の高い仕事である(特に後者に含まれている『ラ・ジュテ』論は圧巻だ)。サン・パウロではCinema, video, Godard (2004)というデュボワの論文集がポルトガル語に訳されて出ているが、フランスでもようやくこの秋に、La Question Video: Entre cinéma et art contemporainという16章から成る大部の論文集がYellow Nowから出版されることになっているという。

さて、サマースクールの内容についてもごく簡単に触れておこう。幕開けを飾るローラ・マルヴィの基調講演は、総合テーマ「映画と現代美術」の名にふさわしく、リア・プロジェクションの技法を活用した現代美術作家マーク・ルイスのいくつかの作品をめぐるもの(この作品がわかりやすい)。この基調講演のように映画と現代美術を架橋する人物を扱った発表はかなり多く、ピーター・グリーナウェイと、折しもジュ・ド・ポームで(昨年の京近美のものとは異なる)展覧会が始まったウィリアム・ケントリッジに関してはパネルが組まれ、他にもイヴ・サスマン、オラファー・エリアソン、タシタ・ディーン*1、エミリー・リチャードソン、マラ・マチューシュカ、ハルン・ファロキ、ソフィー・カル、デイヴィッド・リンチなどが取り上げられていた。映画と建築という問題系もサマースクールの一つの軸を成しており、エイゼンシュテインの《ガラスの家》やル・コルビュジエからベルナール・チュミまで様々な形象が取り上げられた。もちろん、作家論ばかりが目立っていたわけではなく、何らかの形象に沿ってさまざまな作品を横断するような発表や、新たな概念を作り上げようとするような発表もあったのだが、ここでは触れずにおく。

この催しの枠内で、いくつかの映像作品の上映があったことも付記しておこう。わたしが見ることができたのは、ポルトガルの女性監督Susana de Sousa Diasの『48』という作品のみだが、1974年まで48年の長きにわたって続いたポルトガル独裁政権下での警察による拷問をテーマにしたこの作品の映像は、主にかつての収容者のアーカイヴ写真(正面からの写真と真横からの写真)によって成立しており、そこにその写真の主が過去を振り返って証言する声が響き渡るという構成の実に密度の濃い作品であった。

ところで、以上に簡単に紹介したサマースクールの内容は、実はほとんど録画されており、ここで誰でも視聴することができる(当初は生中継もされる予定だった)。わたしも腹をくくって恥をさらすつもりだったのだが、わたしの発表した日の午前中だけ録画担当者が不在で、記録されなかったそうだ。残念なことである。日本の学会でも、ウェブを使った中継をもっとやってもよいのではないか。緊張感も増すだろうし、少しでも視聴者が増えるのは喜ばしいことではないだろうか。

*1:最近、パリのマリアン・グッドマン・ギャラリーで、彼女の最新作Craneway Event (2009)を見る機会を得た。マース・カニングハムが死の直前に行っていたリハーサルの光景を収めた108分の美しい16ミリ作品である。