les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

ジャック・リヴェット「卑劣さについて」を読む

ついにジャック・リヴェットが亡くなった。2010年にはエリック・ロメールクロード・シャブロル、2012年にはクリス・マルケル、2014年にはアラン・レネが立て続けに逝去し、ヌーヴェル・ヴァーグの時代を牽引した映画人たちのうち存命なのは、ジャン=リュック・ゴダール(1930-)や、アニエス・ヴァルダ(1928-)や、ジャック・ロジエ(1926-)くらいになってしまった。

リヴェットの作品で最初に見たのは、たぶん『セリーヌとジュリーは舟でゆく』(1974)だったと思う。その後、『北の橋』(1981)、『美しき諍い女』(1991)なども見て、『ジャンヌ・ダルク』2部作(1994)以降は、日本で封切られたものは封切り時に見た。かつて随分苦労して長編第一作の『パリはわれらのもの』(1960)の米国版VHSや、『アウト・ワン』(1971)の4巻組の仏語版VHSを手に入れて見たことも懐かしい。しかし、どの作品を見ても、その奇抜な着想には魅せられながらも、ほとんど異星人が作った映画を見ているようで、リヴェットがやろうとしていることが腑に落ちたという気は残念ながらいまだにしない。

リヴェットの作品をさらに謎めいたものにしている理由は、彼の作品群のトーンが、1950年代に彼が書いていた切れ味鋭い映画批評と調和していないことではないだろうか。ゴダールは、批評を書くことはすでに映画を撮ることだったと言い、実際、彼の映画批評は彼の映画と類似しており、彼の映画と同じくらい痛快だ。トリュフォーにおいても、批評と実作の連続性は比較的明瞭に見て取れる。しかし、リヴェットはどうか? 「ロッセリーニについての手紙」や「ハワード・ホークスの天才」といった彼のきわめて鋭利な批評は、見終わった後にチェシャ猫の笑いのごとく不思議な感覚だけが残る彼の作品群と同一世界にあるようには思えないのである。しかも、彼は自分の批評が本のかたちで集成され、再刊されることを望まなかったようで、彼が主に1950年代に書いた文章を読むには、いまだに『カイエ・デュ・シネマ』誌などのバックナンバーに当たらなければならないという事情も、彼の映画と批評のあいだの断絶の印象を強めている。

さて、リヴェット追悼の意味も込めて、ここに「卑劣さについて」の新訳を披露したいと思う。「卑劣さについて」は、ジッロ・ポンテコルヴォ(1919-2006)の『カポ』Kapo (1960年、邦題『ゼロ地帯』)のあるシーンにおけるトラヴェリングを弾劾した短評で、『カイエ・デュ・シネマ』の120号(1961年6月号)に掲載された。のちの映画批評家セルジュ・ダネー(1944-92)に決定的な影響を与えたことでも知られていて、その点については「『カポ』のトラヴェリング」(『不屈の精神』所収、梅本洋一訳、フィルムアート社、1996年、17-53頁)に詳しい。「卑劣さについて」には故・梅本洋一氏による既訳があるが(同書の221-225頁に「資料」として訳出されている)、同書は版元品切れ中でもあり、また重要なテクストには複数の訳があってもよいだろうという判断から、以下に試訳をお目にかける次第である(文章中の太字は原文イタリック)。

なお、ダネーも見たことがないという『カポ』は、今ではDVD(海外版)で手軽に見ることができる。

Kapo' [Italian Edition]

Kapo' [Italian Edition]


ジャック・リヴェット「卑劣さについて」(Jacques Rivette, « De l'abjection », Cahiers du cinéma nº 120, juin 1961, p.54-55)

 最低限言いうるのは、このような主題(強制収容所)についての映画を企てるとき、自分に前もってある種の問いかけを課さずにいるのは難しいということだ。にもかかわらず、錯乱しているからか、愚かだからか、はたまた意気地がないからか、まるでポンテコルヴォがそのような問いかけをするのを果敢にも無視したかのようにすべてが進行している。

 たとえば、リアリズムという問いかけがある。容易に理解できるさまざまな理由で、絶対的なリアリズム、あるいは映画でその代わりとなりうるものは、この場合、採用することはできない。この方向でのあらゆる試みは必然的に未完成(「したがって不道徳」)であり、再構成や滑稽でグロテスクな偽装(maquillage)のあらゆる試み、「スペクタクル」という伝統的なあらゆるアプローチは、覗き見趣味とポルノグラフィーに属しているのだ。演出家は〔リアリズムを〕味気ないものにしなければならない。自分が思い切って「現実」として提示しているものが、観客にとって物理的に耐えうるものであるために。その結果、観客は、たぶん知らず知らずのうちに、こう結論するしかなくなるだろう。もちろん、それは痛ましいことだった、あのドイツ人たちは何と野蛮なのか、だが結局のところそれは耐えがたいものではなかった。十分に思慮深くあって、多少なりとも機転を働かせたり辛抱したりすれば、切り抜けることができたはずなのだ、と。同時に、誰もが知らないうちに恐怖に慣れてしまい、恐怖が生活慣習のなかに少しずつ入り込み、やがて現代人の精神的な風景の一部となるだろう。そうなったら、実際、衝撃を与える(choquant)ものではなくなったものに、今度、いったい誰が驚いたり憤ったりできるというのだろうか?

 ここで私たちは、『夜と霧』の力が記録資料に由来するのではなく、モンタージュから来ていたことを理解する。つまり、あるがままの事実――悲しいかな、現実に起こった事実――を、ある動きのなかでまなざしにもたらすような技法に由来していたことを――その動きはまさしく、〔収容所でみられる〕現象を理解し、認めることを承諾しえない、明晰でほとんど非人称的な意識の動きである。レネが取り上げたものよりもむごたらしい記録資料は、ほかで見ることもできたが、人が慣れることのできないものなどあろうか? ところが、『夜と霧』に慣れてしまうことはない。映画作家が自分の示すものを裁き、またその示し方によって裁かれているからだ。

 話は変わるが、ムレの「道徳とはトラヴェリングに関わる事柄である」という文章(またはそのゴダール版の「トラヴェリングとは道徳に関わる事柄である」)は、あちこちで大いに引用されたが、たいていの場合、かなり愚かな仕方で引用された。人はそこに形式主義(formalisme)の頂点を見て取ることを望んだのだ――〔ジャン・〕ポーランの用語法を借りるならば、むしろその「恐怖政治」的な行き過ぎを批判することもできるのに。しかしながら、『カポ』で〔エマニュエル・〕リヴァが電気の流れる有刺鉄線に身を投げて自殺するショットを見るがよい。その瞬間に、死体を仰角で再び画面に収めるべく前方へのトラヴェリング(travelling-avant)を行い、挙げられた手が最終的なフレーミングでちょうど角に刻まれるように気を配ることにしたこの男は、最も深い軽蔑にしか値しまい。私たちは数ヶ月前から、形式と内容とか、リアリズムと夢幻劇とか、脚本と「演出」とか、自由に演じる俳優か制御された俳優かとか、その他のたわごと(balançoire)といった偽の問題にうんざりさせられている。あらゆる主題は権利上、生まれながらにして自由かつ平等であるのかもしれないが、重要なのは、色調(ton)、あるいは語調(accent)、ニュアンス――どれでも好きなように呼べばよいだろう――であり、すなわち、ある人間――作家という必要悪――の視点であり、その人間が自分の撮るものに対して、したがって世界と森羅万象に対して取る態度なのである。それは状況の選択や、筋書きの構築や、台詞や、俳優の演技や、純然たる技法(technique)のうちに、「一様におなじだけ」(indifféremment mais autant)表れうるのである。恐れとおののきを抱きながらでしか取り扱うべきではない事柄というものがある。おそらく、死はその一つであろう。これほど神秘的な事柄を撮影する瞬間に、どうして自分が詐欺師だと感じずにいられるだろうか? ともかく、自分に問いを課し、その問いかけを何らかの仕方で自分が撮るもののなかに含める方がよいだろう。だが、疑いこそ、ポンテコルヴォやその同類に最も欠けているものなのだ。

 一本の映画を作ることは、ある種の事柄を見せることであり、同時に、同じ操作によって、それらの事柄をある一面から見せることである。この二つの行為は、絶対に切り離すことができないのだ。演出のなかに絶対的なものがありえないのと同様――というのも、絶対的なもののなかに演出はないのだから――、映画は決して「言語活動」(langage)にはならないだろう。記号(signe)とシニフィエ(signifié)の関係はここではまったく通用しないし、ザジ少女と同じくらい悲しい異端にしか帰着しない。総合の代わりに付加、統一性の代わりに分析で済ませようとする映画的事象のアプローチはどれも、私たちをただちに映像のレトリックに差し向けるのだが、それは機械図が絵画的事象と関係するほどにしか映画的事象と関係していない。「左翼の批評家」を自称する者たちにとって、なぜこのレトリックがかくも貴重なものであり続けているのだろうか?――おそらく、結局のところ、彼らは何よりもまず筋金入りの教師なのだろう。だが、私たちがつねに、たとえばプドフキン、デ・シーカ、ワイラー、リッツァーニ、それにIDHECの旧従軍兵たちを嫌ってきたのは、この形式主義の論理的な帰結がポンテコルヴォと呼ばれるからである。拙速なジャーナリストたちがどう考えようと、映画史は毎週、革命の状態に陥るわけではない。ロージーのような人物の力学や、ニューヨークで行われている実験は、砂浜に打ち付ける波が深海の静けさを揺るがさないのと同様、映画史を揺さぶることもない。なぜか? 人は一方で形式的な問題だけをみずからに課し、他方でそうした問題すべてをいっさい提起することなく、前もって解決しているからだ。だが、真に歴史をなしており、「その道の専門家」(hommes de l’art)とも呼ばれる人々は、むしろ何と言っているのか? レネは、今週のある映画が観客としての彼の興味を惹くとしても、アントニオーニを前にしては自分がアマチュアでしかないと感じると告白するだろう。トリュフォーならルノワールに関して、ゴダールならロッセリーニに関して、ドゥミならヴィスコンティに関して、おそらく同じことを言うだろう。さらに、あらゆる記者や時評家に逆らって、セザンヌが少しずつ画家たちによって押しつけられたのと同様、映画作家たちもムルナウや溝口を歴史に押しつけるのだ…。

ゴダールの「反ユダヤ主義」?

今日、ウェブ上に公開された表象文化論学会のニューズレター『REPRE』の第25号に、4月の上旬にミネルヴァ書房から刊行された論集『映画とイデオロギー』(加藤幹郎監修・杉野健太郎編)の紹介文を寄せた。ほぼ同時期に同じ叢書で刊行された『映画とテクノロジー』(加藤幹郎監修・塚田幸光編)も紹介されている。さらに、同じ号には、わたしも寄稿した『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』(金子遊・東志保編・港千尋監修、森話社、2014年)の東氏による紹介文も掲載されている。

論集『映画とイデオロギー』には、わたしはゴダールと「ユダヤ人問題」についてまとめた論文を寄稿している。書誌情報は以下のとおり。

堀潤之「ゴダールの「ユダヤ人問題」──歴史のモンタージュとの関わりを中心に──」、加藤幹郎監修・杉野健太郎編『映画とイデオロギー』、ミネルヴァ書房、2015年4月、247-275頁

編者の「はしがき」から、拙論の概要を記した部分を引用させていただく。


堀潤之「ゴダールの「ユダヤ人問題」――歴史のモンタージュとの関わりを中心に」(第8章)は、ゴダールユダヤ人問題を取り上げる。
本章の出発点となっているのは、映画作家ジャン=リュック・ゴダールが、2009年から2010年にかけて、アメリカとフランスのジャーナリズムで反ユダヤ主義の嫌疑をかけられたという出来事である。そうした告発がなされる背景としては、ゴダールが特に『映画史』(Histoire(s) du cinéma, 1988-98)以降、ナチスによるユダヤ人大虐殺をはじめ、20世紀にユダヤ人がたどった歴史に強い関心を示す一方で、特に1975年に完成したパレスチナをめぐる実験的作品『ヒア&ゼア・こことよそ』(Ici et ailleurs, 1975)では、激烈な反シオニズム・親パレスチナイデオロギー的立場を表明していたという、いささか込み入った状況がある。
本章では、まずアメリカのジャーナリズムによってゴダールに対してなされた「反ユダヤ主義」の告発の言説がいかに杜撰なものにすぎないかを指摘し、その過程でとりわけ、『ヒア&ゼア』で公開当時から物議を醸したあるシーンを再検討する。
次いで、主にフランスで問題視されたゴダールのある発言――ガス室に連れて行かれるユダヤ人犠牲者たちを、パレスチナにおける自爆テロリストと比較するショッキングな発言――を取り上げて、「モンタージュ」によって歴史にアプローチしようとするゴダールの方法論が迷走してしまった事例として批判的な検討を加える。
最後に、ユダヤ系の哲学者・作家ベルナール=アンリ・レヴィによるゴダール擁護の試みを引き合いに出し、彼が報告するいくつかの未実現の企画の紹介を通じて、近年のゴダールがどれほど「ユダヤ人」という形象に対して真摯な関心を抱き続けているのかを確認する。
本章は全体として、ホロコーストパレスチナ問題という、異なったイデオロギー的立場が鋭く対立している歴史のトポスに対して、独自の映画的表象がどのように向き合うことができ、またそこにどのような陥穽が潜んでいるかについての興味深い事例を提供している。

(杉野健太郎氏による「はしがき」x-xi頁より抜粋、改行は適宜加えた)

右上に掲げた図版は、2010年11月2日の『ニューヨーク・タイムズ』紙の一面。論文中でも触れた、ゴダール反ユダヤ主義についての記事(Michael Cieply, “An Honorary Oscar Revives a Controversy,” The New York Times, November 2, 2010)の冒頭部分が赤枠で囲った部分に載っている。参考までに、赤枠部分を拡大した画像も載せておこう。

ヨーロッパには、パレスチナ側に加担した途端に反ユダヤ主義のレッテルを貼られるという「空気感」もあるのだが、ことゴダールをめぐっては、モンタージュによる歴史叙述という彼の方法論がはらむ根本的なイデオロギー的曖昧さが、さらに事態を複雑化しているように思う。肝心なところで腫れ物に触るような感じになってしまった反省はあるが、いくつかの「論争」(というほどのものでもないのだが)の事実関係と基本的な構図に関しては、この論考で多少とも明瞭になったのではないかと思う。

ついでに、少し前のアウトプットについても触れておく。まず、7月上旬にゴダールの『さらば、愛の言葉よ』のBlu-rayディスク(およびDVD)が発売されたが、そこに含まれている「新規解説書」はわたしが執筆したものである(わたしの名前はアマゾンなどのウェブ上にも、パッケージにも書かれていないので、購入して実際に解説書を開いてみるまで判らないのだが……)。

内容的には『ユリイカ』2015年1月号に載せた拙稿(このエントリーを参照)に加筆し、再構成したものである。

その加筆部分に書いたことだが、『さらば、愛の言葉よ』の原題である「さらば、言語よ(Adieu au langage)」は、もしかしたら、パレスチナ問題についての、あるいは「ユダヤ人であること」についてのマルセル・オフュルスとの共同企画のタイトルになったかもしれないものなのだ。そのことはゴダールマルセル・オフュルスの対談本であるDialogues sur le cinéma (Le bord de l'eau, 2011)に書かれている。

この本が収録している2つの対談のうちのひとつ(2009年にジュネーヴで行われたもの)を元に作られたドキュメンタリー映画サン・ジェルヴェ劇場での出会い』La Rencontre de Saint Gervais (2011)は、今年の2月に日本語字幕を作成して、神戸映画資料館でレクチャーとともに参考上映させていただいた(概要はここ)。ゴダールが79歳、オフュルスが82歳になる年に行われたこの対談は、闊達なユーモアを交えながら(若い頃、周囲と口論ばかりして、大量のファックスを送りつけるのが常だったので、喧嘩相手から思わず(マックスとかけて)「ファックス・オフュルス」と呼ばれたことがある、とか)、潰えた共同企画の思い出を巡って、次第に狐と狸の化かし合いのような様相を呈していく……。

上映時のレクチャー「ゴダールマルセル・オフュルス――戦争の記憶と映像の世紀」は、『哀しみと憐れみ』(1969)から、ゴダールが絶賛している『ホテル・テルミニュス』(1988)を経て、最新作の『ある旅人』(2013)に至るまで、マルセル・オフュルスの経歴とその第二次世界大戦の記憶に対するアプローチの仕方をざっとたどるのが主な目的で、オフュルス/ランズマン/ゴダールの三つ巴の絡み合い(人生の上での、および歴史に対するアプローチの上での)については簡単に触れるだけで終わってしまったが、その点は今後さらに探究すべきであろう。

日本映像学会第41回全国大会のシンポジウム

去る5月30日(土)・31日(日)に京都造形芸術大学で開催された日本映像学会第41回全国大会で、シンポジウム「映画批評・理論の現在を問う――映画・映像のポストメディウム状況について」に登壇したので、忘れないうちにその感想を概要とともに記しておく。なお、ここでのまとめは、登壇者の発言を忠実に再現することを目的とするものではなく、わたしにとって強く印象に残った部分だけをごく選択的に拾ったもので、しかもわたし自身の感想とすでに混じり合ってしまったものなので、思わぬ誤解もあるかもしれないことをお断りしておく。

およそ3時間におよぶシンポジウムの前半では、北小路隆志の司会のもと、パネリストのうちの4名がおのおの20-30分程度のプレゼンテーションを行った。

まず、プロデューサーの岡本英之氏(わたしにとっては、彼がミュージシャン・俳優として出演した濱口竜介の『親密さ』でのしっとりとした歌唱シーンが鮮烈に印象に残っている)が、自身が運営するLOAD SHOWの紹介を軸にしながら、現在の映画の興行・批評を考えるにあたってヒントとなるようないくつもの事例を提供してくれた。LOAD SHOWはストリーミングやダウンロードで自主製作映画の配信を行っているが、とりわけ印象に残っているのは、「これからは配信だ」というような考えで事業を展開しているわけではないという氏の留保である。LOAD SHOWで過去開催したという映画祭の事例――受賞作だけでなく、エントリーされたすべての作品を視聴できるプラットフォームとしても機能する映画祭――にもみられるように、デジタル・プラットフォームは限りない可能性を秘めたものにも思えるのだが……。

もうひとつ印象づけられたのは、批評の不在という話で、映画批評から食べログ的なレビューへの移行がみられるという点。LOAD SHOWのカルチャーサイトには映画をめぐる先鋭的な情報が集約されているが、それと並行して、現在の状況に対するささやかなオルタナティヴを開拓しようとするのが、おそらく、もうすぐ創刊される小雑誌『映画横丁』(編集人は『映画酒場』を発行されている月永理絵氏)なのであろう。一歩間違えば趣味的な自閉に陥ってしまうかもしれない危うい地点での新たな試みに期待が高まるところだ。

続くパネリストの渡邉大輔氏は、ご自身が批評家としてくぐり抜けてきた「ゼロ年代」の批評を振り返りつつ、批評とは何かを考察する。「物語」よりも「構造」が前景化し、たとえば『レザボア・ドッグス』(92)などにその典型が見出される「キャメロンの時代」(安井豊)、東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物の時代」を引き合いに出しつつ、ひとつには「ネタ化」に自覚的に適応することを特徴とするゼロ年代の批評のあり方を抉り出す内容だったと理解している。

氏が柄谷行人を引いて言うように、みずからの存立基盤そのものを問い直すことが「批判」ならぬ「批評」であるならば、デジタル以降の映像の根本的なアーキテクチャにも氏の関心が向かうのは当然のことだろう。具体的な事例として、実際の都市空間とのフィードバックが作品そのものに組み込まれている瀬田なつきの『5windows』や、濱口竜介の『親密さ』の上映形態が俎上に載せられたことにも、一貫しているという印象を受けた(後者のオールナイト上映の事例はいささか強引であるような気もするが)。

3番目のパネリストの三浦哲哉氏は、最近、岩波文庫で新訳が出たアンドレ・バザンの今日的な可能性を探るべく、彼の長大な論考「演劇と映画」の勘所を読み解く。なかでも、映画の出現以前、ある種の演劇は「幼形成熟」していたにすぎず、たとえば古典的な笑劇がバーレスク映画へと形を変えて復活を遂げたように、演劇は映画という新しいメディウムの登場によって別様の進化の可能性を持ったのだというバザンの着想を受けて、「映画」もまた「幼形成熟」しているのかもしれないのであり、仮に「ポストシネマ」と名付けうるものの潜在的な状態にとどまっているのかもしれないと述べる三浦氏の見立てはたいへん魅力的なものにうつった。

また、わたしが討議でも指摘したように、バザンが「映画」という場を演劇、小説、絵画といった他芸術を(それらの諸芸術の形式もろとも)内包するものとみなしたことは、レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド・メディア」という概念と通底していると考えられるし、いずれにせよバザンの「不純な芸術」としての映画という着想がもっている可能性はまだ汲み尽くされていないような気がする。

最後の登壇者であるわたしのプレゼンテーションでは、「映画と他の諸メディウム――テレビ、ヴィデオ、コンピュータ」と題して、映画と他のメディウムとの交渉の歴史を振り返ることで、とりわけレイモン・ベルールを導きの糸としながら、自律した芸術としての映画の観念を相対化することを試みた。まず、「テレビ」に関しては、ダドリー・アンドリューが昨年に編纂した『Andre Bazin's New Media』(バザンのテレビ論、ワイドスクリーン論、3D映画論などの英訳による集成)に触発されつつ、バザン、『カイエ・デュ・シネマ』誌、ヌーヴェル・ヴァーグへの「テレビの美学」の影響をスケッチした。初期ヌーヴェル・ヴァーグへのテレビの影響はことのほか大きく、この議論はさらに発展させてみたいと思っている。

続いて、「ヴィデオ」に関しては、ゴダールの1970年代以降の実践を振り返りつつ、それが60年代ゴダールの「テレビの美学」からの影響と地続きであることを指摘し、ゴダールの他のメディウムとの本格的な格闘は「ヴィデオ」の終焉(具体的には『映画史』)でもって終わったのではないかという問題提起をした。

それ以後、映画と競合する(広義における)「メディウム」は、「コンピュータ」と「美術館」である。マノヴィッチのいうように、過去のあらゆるメディウムは「メタ・メディウム」としてのコンピュータ上のデータに一元化されるという面があるにしても、そうであるがゆえに、かえって、そのデータをどのように出力するかという装置(インターフェース)が無限に多様化するというパラドクシカルな状況があるのではないか。そして、また別の水準において、私たちは現在、「美術館」をはじめとする多種多様な映像の形態に「映画」がかつてなく脅かされているようでいながら、むしろメディウムとしての「映画」の強固さが再認識させられるような状況にいるのではないか。おおむね以上のようなことを指摘した(参考までに、このブログの末尾に発表の際に使ったパワーポイントのスライドを掲げておく)。

その後、休憩を挟んで、青山真治監督藤井仁子からのコメントがあった。その内容を再現するのは難しいが、青山監督のコメントでは、トニー・スコットの投身自殺のニュースを聞いたときにご自身にとっての「映画は終わった」(「死んだ」ではない)と強く感じ、現在は東京と京都を毎週何度も往復しながら教育にも多大なエネルギーを注いでいること、ここ数年間の演劇の演出の仕事を経て、WOWOWの全4話のドラマ『贖罪の奏鳴曲』でかつて映画だったものをやり直すという体験をしたこと、『ユリイカ』(2001)がフランスの批評家フィリップ・アズーリによって当時すでに「ポストシネマ」と形容されたことなどが印象的だった。

藤井氏のコメントは多岐にわたる充実したものだったが、まず、デジタル以降の出来事は映画にとって本当に新しいのか、量的な差異を質的な差異と見誤っていまいかという根本的な問題提起がなされた。その他の指摘のうち、映画のアイデンティティが揺らいでいると言っても、それは今に始まったことではなく、もともと映画は猥雑なものであって(商業でも芸術でもあるという点に明瞭に現れ出ているように)、メディウム・スペシフィシティを追求するようなモダニズム的言説とは相容れないという指摘や、画面の細部に偏執狂的な視線を注ぐシネフィリア的な映画の見方は、一方では映画の本性をインデックス性に見て取ることに、他方では作家性の顕揚に向かうという指摘にはとりわけ強い印象を受けた(なお、シネフィリアに関しては、そのテーマを主題的に論じている数冊の本のほか、藤井氏も言及していたポール・ウィレメンの『Looks and Frictions: Essays in Cultural Studies and Film Theory (Perspectives S.)』所収の論考が大変参考になる)。

以下、わたしの発表のパワーポイントのスライド画像を掲載しておく(クリックで巨大化します)。

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ゴダールの最新インタヴュー

2012年創刊のフランスの映画雑誌『Sofilm』の最新号(Mai 2015, nº30)にゴダールのロング・インタヴューが載っている(p.48-60)。インタヴュアーは、編集長のティエリー・ルナス。映画の製作・配給・出版を精力的に手がけているCapricciの創設者のひとりである。

ところで、前エントリーで書き忘れたが、映画の出版物に関しては、Capricciのコレクションからも目が離せない。出版活動が始まってからまだ十年も経たないはずだが、邦訳のあるモンテ・ヘルマンのインタヴュー『モンテ・ヘルマン語る---悪魔を憐れむ詩』や、編集者ウォルター・マーチの『映画の瞬き[新装版] 映像編集という仕事』にとどまらず、リュック・ムレやルイ・スコレッキやミシェル・ドラエといった「古参兵」たちの評論集、ジョン・フォードヴィンセント・ミネリジョージ・キューカーオットー・プレミンジャーらの古典的映画作家からガレル、デュラス、ブラッケージ、アドルフォ・アリエッタらの前衛に至る作家論、さらにはジャック・ランシエールのベラ・タール論、ペテル・サンディ(Peter Szendy)のアポカリプス映画論や、フレドリック・ジェイムソンやスタンリー・カヴェルの翻訳まで幅広く刊行しているので、いつの間にか、わたしの書棚でCapricciの本がだんだん目立ってくるのも当然だろう(ちなみに、ピアニストのフィリップ・カサールが映画について語り下ろした『二拍子、三楽章』というとても面白い本もあり、彼がもっと有名だったら訳してみたいところなのだが……)。

さて、肝心のゴダールのインタヴューに戻って、いくつか読み所を紹介しておこう。まず、気が早い人のために末尾で明かされている情報から紹介すると、次回作のタイトルだけは決まっているようで、『映像と言葉:青の試み』Image et Parole: Tentative de bleu、あるいは『青の試み』となるそうだ。ただし、このところ企画をスタートする際の一種の導きの糸としてタイトルだけ先に決めるという傾向があり、このインタヴューでも内容に関する説明はいっさいない。

ゴダールは2015年3月に、スイス映画賞の名誉賞を受賞した。インタヴューは、その賞金3万スイスフランを、ニヨンの動物保護団体とエトワの野鳥保護団体とアムネスティ・インターナショナルと自分とで四等分したという話題から始まる。授賞式に行かない代わりにゴダールが作成した5分たらずの短篇が、現時点でのゴダールの最新作だ(YouTube等で手軽に見られるこの作品の理解のためには、このサイト採録が有用である)。杖をついて歩く84歳のゴダールが、『右側に気をつけろ』のスラップスティック的で奇矯なパフォーマンスを年齢相応に演じ直しているかのように(ちなみにインタヴューによると、ゴダールはシャルリ・エブド襲撃事件の後、「脊柱に発作のようなもの」が起きて、一ヶ月半にわたって入院していたらしい)、床に寝そべり、最後に起き上がる身体動作が印象的なこの作品の主題は、ゴダールもインタヴューで語っているように、かつてフランス映画、ドイツ映画、アメリカ映画が存在したようには「スイス映画はもはや存在しない」ということ、そして「慎ましやかな腐敗」(パゾリーニの詩集『グラムシの遺骸』からとったという)としてのスイスである。

ゴダールは『リベラシオン』と『シャルリ・エブド』の長年の愛読者である。『ゴダール・ソシアリスム』に出演している経済学者のベルナール・マリスは、惜しくもシャルリ・エブド襲撃の犠牲となったが、彼を起用したのも『シャルリ』のコラムを読んでいたからだという。ゴダールは、「わたしはシャルリ」という標語にも手厳しく、同じ「Je suis Charlie」でも「suis」を動詞suivreの活用形として読んで「わたしはシャルリを追う」という方がいい、実際に自分は40年間シャルリを追いかけてきたんだから、などと言う(ただし、『勝手にしやがれ』にすでに前身の『アラキリ』Hara-Kiriの売り子が出てくると語っているのは、『カイエ・デュ・シネマ』の売り子との記憶違いだろう)。êtreという動詞(英語でいうBE動詞)を使うとろくなことはないというのは、近年のゴダールがよく強調していることだ。

ギリシャ財政問題についてもゴダールはユーモラスな見解を述べる。クリス・マルケルの13話からなるテレビ番組『フクロウの遺産』L'Héritage de la chouette (1989)を見れば、私たちが「すべてをギリシャの思想に負っている」ことがわかる。この作品を見さえすれば、「ドイツ、ヨーロッパ、ギリシャの間の問題は解決する」、と。さらにゴダールは言う。「文章を作って、「ゆえに」と言うたびに、ギリシャ人たちは著作権料として10ドル受け取るべきであって、そうすればもうギリシャの負債などなくなるだろう」。三段論法もギリシャ人が作ったのだから、ということだろう。

他者の言葉、他者の映像を使ってみずからの作品を作るゴダールは、基本的に知的所有権なるものを認めていないが、それでもよく著作権のことを話題にする。彼は「興味を持った抜粋を、権利のことを気にかけずに使」ってきたが、これまで訴えられたことはないと述べ、判例を得るためだけにでも、ミエヴィルにわざと訴えてもらおうかと思っている、などと語る。しかし、ゴダールは『ゴダールリア王』(1987)でヴィヴィアーヌ・フォレステルのエッセイ(確か『La violence du calme』)を無断で使用したことで本人と出版社から2004年に訴えられ、罰金を支払わせられたはずなのだが、忘れてしまったのだろうか……(訴えられたのが2004年なのは、本作がフランスでは2002年まで封切られなかったからだろう)。ともあれ、法廷で判事が「エヴァン法」と言うたびにエヴァン氏に権利料を払わなければいけないのではないかとか、テレビなどで写真が使われるとき、写真家にだけお金が支払われて、被写体には決して支払われないのはおかしいとか、ゴダールは一見すると突拍子もない例を挙げつつ、権利料の欺瞞に注意を促している。

後者の例は、ただちに、ゴダールが『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)以来、たびたび取り上げている写真家リュック・ドラエが1992年にサラエヴォで撮った、爆発物によって血まみれになって地面に横たわるビリャナ(Biljana)という名の少女の写真のことを思い起こさせる(写真はこのページなどで見られる)。ゴダールは『フォーエヴァー・モーツァルト』で一瞬この写真を画面に出しているが、その際、写真家ではなく、この少女に許諾を求めたという。ちなみに、ゴダールは『映画史』(1988-98)の3Aや『アワーミュージック』(2004)でもこの写真を使っており、さらに『真の偽造パスポート』(2006)ではビリャナ本人が(エステル・フレイの2004年のドキュメンタリー作品『ビリャナ』からの引用で)登場する*1。イメージの流通をめぐる問いかけは、少なくともここ20年にわたってゴダールの主要な関心事であり続けている。

その他にも、ケルアックの『オン・ザ・ロード』を映画化したかったとか(奇妙な名前の村として知られるトゥルース・オア・コンシクエンシーズからクレイジー・ウーマンまでの道のりを描きたかったらしい)、ダニエル=コーン・ベンディットがブラジルのワールドカップに行ったときにスラム街の貧民たちに取材して撮ってきたルポルタージュはひどいとか、コッポラとの共同企画として存在したロサンジェルス・オリンピックの撮影はぜひ実現させたかったとか、パウロ・ブランコとの企画もかつて存在して、資金を前借りしたのだが、彼の母親の病気の療養費のために企画を中止してお金を返却したとか、自分は予算を超過することは決してないとか、月に600ユーロの年金しか受け取っていないとか、このくつろいだ雰囲気のインタヴューには雑多な話題がちりばめられている。

だが、インタヴュー後半で最も興味深いのは、ゴダールがアトリエの窓のない奥まった部屋*2にティエリー・ルナスを連れて行き、3つのディスプレイが配置されているのを見せるところだろう。『にがい米』が映し出されていたというその3つのディスプレイが、正確にどのように配置されているのかまでは残念ながら文章からは読み取れないが、ゴダールがその文脈でアベル・ガンスの『ナポレオン』の三面スクリーンの試みを引き合いに出しつつそれとは違うと述べていることからも、おそらくは見る者を取り囲むようなかたちで置かれているのだろう。彼はさらに、実際にこの3つのディスプレイで編集作業を行ったと述べ、その作業を「彫刻」と比較する。ここには『さらば、愛の言葉よ』の3Dを考えるにあたっての大きなヒントがあるのではないだろうか。

*1:この顛末については、Jean-Christophe Ferrari, « Histoires de Biljana: Droit des images, devoir de reprise », Jean-Luc Godard: Documents, Centre Georges Pompidou, 2006, p.372-375を参照。

*2:ちなみに、このロールのアトリエは、ゴダールとミエヴィルが長年使用していた住居兼アトリエとは異なり、製作会社のワイルド・バンチに最近になって借り上げられた「前哨地点」(ゴダール)である。ちなみに、この奥まった部屋をゴダールは「イギリス人たちのところ(Chez les Anglais)」と呼んでいる。ワイン貯蔵庫として使われていた部屋で、戦争中にこの手の場所にイギリス人飛行士をかくまったことを想起させるからだという。

最近執筆した書評

今日、公開された表象文化論学会のニューズレター『REPRE』の第24号に三浦哲哉氏の『映画とは何か フランス映画思想史』の短評を寄せた。

なお、本号では小特集「人文系出版の現在」が組まれており、特に3名の独立系編集者による座談会がとても面白い。同じく面白い読み物の「各国の出版事情」ではフランス語圏が取り上げられていないが、どなたか適任者によるレポートを読みたかったという気もする。

映画・芸術分野に話を限れば、たとえばSeuilとかMinuitとかFayardとかの著名な版元よりも、Presses Universitaires de Rennesの叢書や、『カイエ・デュ・シネマ』の発行元のCahiers du cinémaや、セルジュ・ダネーやレイモン・ベルールが1992年に創刊した映画雑誌Traficの版元で、より一般的には小説の出版で知られるP.O.L.や、教科書的な書籍を多く出しているArmand Colin、さらにはベルギーのYellow NowローザンヌL'Âge d'Hommeディジョンles presses du réelといった地方の出版社などに個人的にはよく注目している。

なお、このブログで報告する機会を逸したが、少し前に、ランシエール『平等の方法』(航思社、2014年)、およびエリック・ロメールクロード・シャブロルヒッチコック』(インスクリプト、2015年)についても書評を書いたので、まとめて書誌情報を挙げておく。

また、これもやや旧聞に属する話になるが、一昨年刊行した訳書『ニューメディアの言語』(このエントリーを参照)の渡邊大輔氏による書評が日本映像学会の学会誌『映像学』93号に、昨年刊行した編著書『越境の映画史』(このエントリーを参照)の門間貴志氏による書評が、日本映画学会の会報40号(PDF)(2014年9月17日、7-9頁)に、それぞれ掲載された。『越境の映画史』については、まもなく発行される『映像学』94号に応雄氏による書評が掲載されることにもなっている。書評をお書きくださった先生方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)

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平等の方法

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ヒッチコック

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