les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

2014年の仕事

いまさらながら、2014年に発表した仕事を備忘を兼ねてまとめておく。昨年、エントリーを立てて報告するのを怠ってしまった事柄としては(それぞれについて、詳しいエントリーを書こうと思っていたのだが、書きかけのまま放置しているうちに年が変わってしまった)、まず1月には3年前に参加した学会から生まれたゴダール論集(The Legacies of Jean-Luc Godard)が刊行された。このエントリーで紹介した発表のほとんどは論文化されて収められている。

4月に刊行された『表象08』では、特集「ポストメディウム映像のゆくえ」の共同討議に参加するとともに、レイモン・ベルールの翻訳とその解説的な記事を寄せた。ほぼ同時期に出たせんだいメディアテークの『ミルフイユ06』でも、「ポストメディア時代の映像」と題して、門林岳史氏(上記の特集の仕掛け人)と三浦哲哉氏が討議を行っている。表象文化論学会のニューズレターRepreの21号でも、「ポスト・ミュージアム・アート」という小特集が組まれており、とりわけ古畑百合子氏の非常に見通しのよい研究ノートは『表象08』の特集とも密接に関連する。

11月にはこのところ熱中していたクリス・マルケルについての二本目の論考を収録したマルケル論集(金子遊・東志保編『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』、森話社、2014年)が刊行された(マルケルについてのもう一本の拙稿は『越境の映画史』に含まれている。またマルケルに関してはこのエントリーも参照)。

ところで、一昨年は勤務校の関西大学表象文化論学会の第8回大会を開催したが、昨年は学会誌『表象』の編集委員長を仰せ付かり、その編集作業に随伴することとなった。執筆者の皆さんと編集委員の尽力によって、4月刊行予定の『表象09』は目下のところ、最後の詰めの段階を迎えており、遠からず目次も公開できるはずだ。

すでに概要にも出ているとおり、メイン特集は「音と聴取のアルケオロジー」。福田貴成氏の司会による共同討議や彼自身の論考に加えて、ジョナサン・スターンやスティーヴン・コナーの論考も掲載する。小特集は「マンガ「超」講義――メディア・ガジェット・ノスタルジー」で、タイトルから予想できるように、石岡良治氏の『視覚文化「超」講義』の番外篇としてマンガを論じたもの。昨年秋の新潟大学での研究発表集会での書評パネルを元にした共同討議を収録している。

厳正な査読を経た4本の投稿論文、および9冊におよぶ書評とあわせて、充実した誌面になっていると思うので、刊行の暁にはぜひ手にとっていただきたいと願っている。


編著書

『越境の映画史』、編著(6人)堀潤之(編著)、菅原慶乃(編著)、西村正男、大傍正規、韓英麗、竹峰義和、関西大学出版部、2014年3月
担当:「はじめに」5-14頁、「「東洋」から遠く離れて――クリス・マルケルによる中国・北朝鮮・日本」211-260頁(総ページ数274頁) 【関連エントリー

論文など

The Legacies of Jean-Luc Godard (Film and Media Studies)

The Legacies of Jean-Luc Godard (Film and Media Studies)

  • 「ベルールの反時代的考察――「35年後――「見出せないテクスト」再考」の余白に」、『表象08』、表象文化論学会、2014年、94-99頁

表象〈08〉

表象〈08〉

クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト

クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト

解説・書評・短評など
  • ゾエ・ブリュノー「ゴダールを待ちながら」(訳=長野督/解説=堀潤之)、『ユリイカ』2015年1月号、112-128頁
口頭発表など
  • 共同討議「ポストメディウム理論と映像の現在」(加治屋健司/北野圭介/堀潤之/前川修/門林岳史)、『表象08』、表象文化論学会、2014年、18-45頁
翻訳
  • レイモン・ベルール「35年後──「見出せないテクスト」再考」、『表象08』、表象文化論学会、2014年3月、78-93頁
  • アルチュール・マス/マルシアル・ピザニ(堀潤之訳)「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」、『ユリイカ』2015年1月号、179-192頁

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』覚書(3) 『ユリイカ』ゴダール特集号

さらば、愛の言葉よ』(Adieu au langage, 2014)が2015年1月31日から公開されるのに先だって、「ゴダール2015」特集を組んでいる『ユリイカ』2015年1月号(目次)が先週末に出た(ほとんどの論考が、やはり映画を見てから読むべきものであることを考えると、出るのがいささか早すぎたという気はする)。わたしは論考とフィルモグラフィを執筆したほか、いくつかの海外文献の翻訳にも関わった。書誌情報は以下の通り(掲載頁順)。

わたしの論考は、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像と、分身および動物のモチーフとの接点をさぐったもの。そこで触れたリルケの『ドゥイノの悲歌』第8歌からの「動物のまなざし」についての引用には、四方田犬彦氏もより詳しく言及している。また、拙稿では特に『ゴダール・ソシアリスム』(2010)以降のデジタル・ゴダールによる新たな映像のテクスチャーを「触覚性」というタームである程度まで説明しようと試みたが、本作の3D映像に関しては平倉圭氏の「新しい種類の透明性」(p.152)を追求しているという指摘に膝を打った。

出演女優のゾエ・ブリュノーによる撮影日誌『ゴダールを待ちながら』については、前エントリーで詳しく触れたとおりだ。

ボードウェルの論考は、彼とクリスティン・トンプソンによる膨大な情報量を誇るウェブログ「Observations of film art」の2014年9月7日のエントリー「ADIEU AU LANGAGE: 2 + 2 x 3D」の抄訳。4つのセクションのうち、「後期ゴダール」のナラティヴ一般について語った最初の部分と、本作の3Dの使用についての所感を記した部分を割愛し、『さらば、愛の言葉よ』のナラティヴ構造を具体的に分析している残りの2セクションを訳出した(そのため副題を付けたのだが、タイトルの「2+2×3D」のうち「×3D」の部分が結局のところ邦訳には存在しないのはご愛敬だ)。このエントリーへの追記もある。

なお、Twitter葛生賢氏も指摘しているように、本号の対談で蓮實重彦氏が「ボードウェルなど、『さらば、愛の言葉よ』を「美しい作品」と言って論じ始めている」(p.84)としているのは事実誤認である。そもそも、一読すれば分かるように、ボードウェルは本作のナラティヴをもっぱら話題にしているのであり、「美」という言葉こそ二度ほど使っているものの(確かに、割愛した箇所で、一度はやや不用意に)、「「ゴダールは美しい」と言うことの無邪気な犯罪性」を体現している典型例とするのは行き過ぎのように感じる。

3Dについての部分を割愛したのは、他の論者がもっと鋭いかたちで触れるだろうと思ったからだが、実際、先にも触れた平倉氏だけでなく、鈴木一誌氏も本作の3D体験を粘り強く考察している。そこでも、3Dの立体像が「平面層の林立と質感の喪失」(p.101)をもたらすとされており、やはりそうした観点から本作の3D映像がもたらす異次元の体験を考え直さなければならないと(早くも)感じている。また、『フラッシュバック・メモリーズ3D』という創意工夫に充ちた3Dドキュメンタリー映画を撮っている松江哲明氏と、『2012』で抽象映画をプルフリッヒ効果(減光遅延方式)を使って3D化するという驚くべき体験を観客にもたらした牧野貴氏もそれぞれの観点からゴダールの3D使用を論じている。

とりわけ、「視神経や網膜を多分に刺激する「危険映像」」からは「新しい表現は出ないし、出したくもない」(p.109)という倫理的態度を明言する牧野氏が(そのことは、『2012』でプルフリッヒ眼鏡をかけてもかけなくてもいいし、どちらの目を減光させてもよいという比類なき自由を観客に与えていることからもうかがえる)、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像による「激烈な視覚攻撃」にほとんど肉体的なダメージを受けながら、「ノーマルな現行の手法を採用し、そのシステムを思い切り破綻せせる」ゴダールの試み、しかも「技術的にはあまりに簡単」で、「劇映画の文脈の中で撮ったからこそ多くの聴衆が目を向けた」試みに、それでも大いに触発されている情景には心を動かされる。

もうひとつ訳出したのは、フランスの映画批評サイトIndependencia同人のアルチュール・マスとマルシアル・ピザニによる「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」。この架空の対話篇は、身も蓋もない言い方をすれば、ゴダール作品の細部にまで通暁したゴダール・マニアによるいささかペダンティックな連想ゲーム的おしゃべりにすぎないかもしれないが、わたしはそもそもこういう蘊蓄が好きなのだ。『ゴダール・ソシアリスム』の際にも細部まで目を配ったエッセイを発表していたこの著者たちについてわたしは何も知らないが、今回も作品の細部に向けるまなざしが光っている。原文は「1 対話の形式(裏面、分身、反映、影)」がここで、「2 「これはいったいどういうことだ?」(想像上の自伝、既視感、夢の物語」がここで読める。続きとして、アレクサンデル・ジュスランによる「3 犬、領土、テレビ画面(想像上の会話)」もあるが訳出はしなかった。

「21世紀のゴダール・フィルモグラフィ」では『愛の世紀』(2001)以降の全作品を解説した。といっても、いわゆる通常の長篇作品は『愛の世紀』、『アワーミュージック』(2004)、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)、『さらば、愛の言葉よ』(2014)の4本しかないので、あとはすべて短篇である(『映画史特別編 選ばれた瞬間』を除けば)。現時点での最新作『溜息の橋』Le Pont des soupirsだけ未見なので、フィルモグラフィの解説が尻切れトンボ気味になってしまったのは許してほしい。

ところで、ゴダール作品を見慣れている人なら以下の写真に見覚えがあるだろう。『映画史』3Bや『古い場所』The Old Place、そして短篇『時間の闇の中で』に出てくる、機械仕掛けで激しい動きをみせる白い布である。小沼純一氏は論考の中でこれをジャン・ティンゲリーのものとしており(p.199)、わたしも長らくそう思っていたのだが、フィルモグラフィの『時間の闇の中で』の項でも触れたとおり(p.228)、これは1997年にル・フレノワでドミニク・パイーニが企画した展覧会《Projections. Les transports de l'image》に出品されたピッチ(Pitch)の作品に違いないだろう(このブログでも実は4年前に、このエントリーの註3でそのことを示唆した)。アラン・フレシェールのドキュメンタリー『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』を見てもわかるように、ゴダールの「現代美術」に関する知識は、今も昔も、ほとんどもっぱらル・フレノワとの数少ない関わりに由来するものなのだ。

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』覚書(2) ゾエ・ブリュノーの撮影日誌

ゴダールの新作『さらば、愛の言葉よ』で映画に初出演した女優ゾエ・ブリュノーが、出演に至るまでの過程も含めて、ゴダールとの撮影がどのように進んだかをつぶさに記した『ゴダールを待ちながら』という本を出している(Zoé Bruneau, En attendant Godard, chapitre I, chapitre II, Editions Maurice Nadeau, 2014)。

フランスの高名な批評家・作家モーリス・ナドーの孫でもあるブリュノーの筆致は軽妙で、彼女にとっては祖父母の世代に近いゴダールは、ヌーヴェル・ヴァーグの神話的な映画作家というよりは、芸術的な意味では称賛に値するとはいえ、いたずらっぽい好々爺にすぎないかのようだ。

ゴダールを待ちながら』の一部は、今月末に発売される『ユリイカ』2015年1月号の「ゴダール2015」特集に抄訳されることになっている(訳は長野督氏による)。その「予告篇」のようなものとして、ここでは本書の読後感をいくつか記しておく。

ゴダールはときどき俳優に突飛なトレーニングを要求する。たとえば、『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1967)の主演女優マリナ・ヴラディに「何をすればいいの?」と聞かれたとき、撮影現場までタクシーではなく徒歩で来いと真剣に答えたり、アンナ・カリーナにも、新聞の社説を音読せよ、と言ったりしている。

ゾエ・ブリュノーに対しては、聾唖者の真似をしてシナリオの一部を朗読するという課題が与えられたようだ。ニコラ・フィリベールのドキュメンタリー『音のない世界で』を参考のために見るように言われてもいる。聾唖者という設定は、最終的な映画では、吃音に姿を変えていて、しかもその要素もかすかな痕跡が残っているだけだ。

しかし、2012年の末頃から2013年の上半期の間に作られたとおぼしき『さらば、愛の言葉よ』の最初の予告篇には、聾唖者の真似をして「「われ思う、ゆえにわれあり」において、「われあり」の「われ」はもはや「われ思う」の「われ」と同じではない」というゴダールがよく引く文章を口にするゾエ・ブリュノーのテスト映像が挿入されている(ブリュノーの撮影初日は2013年5月20日であり、それ以降に撮られた映像はこの予告篇では使われていない)。

ちなみに、この予告篇は2013年の夏頃には誰でもYouTubeで見ることができたが、残念ながら、今ではネット上では流通していないようだ(ダウンロードしておいてよかった)。予告篇の冒頭には、撮影を担当したファブリス・アラーニョがキャノンの一眼レフカメラを二つ組み合わせて自作した装置も出てくる(『3×3D』のゴダール篇『3つの災厄』のあるパートでは、このカメラがほとんど主役級の扱いで出てくる)。

本書を読むと、製作担当のジャン=ポール・バッタージャと撮影担当のファブリス・アラーニョ(『さらば、愛の言葉よ』のスタッフはこの2人ですべてだ)の功績がいかに大きいか、改めて認識させられる。

パリでのゴダールの拠点は、北駅付近にあるバッタージャのアパルトマンであるようだし、そこでゴダールぬきでカメラテストが行われたり、ゴダールからの指示が彼を経由して俳優たちに伝えられたりする。ゾエ・ブリュノーに言わせれば、バッタージャは「ジャン=リュックのどんな小さな欲望、期待、あるいは気まぐれを満足させ、さらにはそれらの先を越そうと一生懸命」(p.77)であり、「彼のベビーシッター」(p.83)でさえある。ついでに言えば、『ゴダール・ソシアリスム』の第2楽章でフロリーヌを演じるマリーヌ・バッタージャは、たぶん彼の娘なのではないか。

ファブリス・アラーニョは、『アワーミュージック』(2004)の《天国篇》の制作担当として、エキストラを集め、ロケハンし、米兵のひとりとして出演もしたのが、ゴダールとの最初の関わりであるらしい。彼は続く長篇作品の『ゴダール・ソシアリスム』(2010)と『さらば、愛の言葉よ』の撮影監督として、デジタル・ゴダールの映像のテクスチャーを定めるのに大いに貢献することになる(これまたついでに言えば、彼の子供たちもオリーヴ畑をどんどん歩いて行くのを後ろからGoProカメラでとらえたシーンに登場する)。



『さらば、愛の言葉よ』の斬新な3D撮影をきっかけに、いくつものアラーニョへのインタヴューがなされている。アダム・クックによる2012年の先駆的なインタヴュー、『フィルム・コメント』誌の最新号に映画評とともに載っているポール・ダラスによるインタヴュー、『カイエ・デュ・シネマ』誌に載ったインタヴューを元にした記事(Fabrice Aragno, « Le lac et le désert », propos recueillis par Gaspard Nectoux, Cahiers du cinéma nº 702, juillet/août 2014, p.22-23)などが比較的アクセスしやすいだろう。

下の写真は、ゾエ・ブリュノーが撮影中に撮ったもの(p.93)で、ゴダールがカメラを意識して、アラーニョの頭に蹴りを入れるふりをしている。撮影時の良好な雰囲気を伝える魅力的な一枚だ。



(Zoé Bruneau, En attendant Godard, chapitre I, chapitre II, Editions Maurice Nadeau, 2014, p.93より引用)

ゾエ・ブリュノーの本には、『さらば、愛の言葉よ』のもうひとりの主演女優エロイーズ・ゴデもたびたび登場する。映画では、わざとふたりの区別がつきにくいように撮影されているように思えるが、実際、ブリュノーが最初に彼女に会ったときにも、自分と似ていると感じたそうだ。

主に英語圏の雑誌やウェブサイトなどでのスチル写真のキャプションで、ふたりが混同されていることが非常に多いのも無理はないのかもしれない(たとえば、Artforumの映画評では、鉄格子の後ろにいるイヴィッチ(ブリュノー)の写真に、しっかり「ジョゼット(エロイーズ・ゴデ)」と書かれている)。わたしは何度も見るうちに完全に区別がつくようになったが、そうなると、かえって見分けがつかずに混沌としていた頃がなつかしい。

ところで、エロイーズ・ゴデの口元には、何らかの傷跡が特殊メイクによって付加されている。これをゴダールは「兎口」bec-de-lièvre(おそらく「口唇裂」と呼ぶ方が一般的だろう)と呼んでいて、ふたりの女優のどちらにそれを付けるか考案していたらしい。ゴデが『カイエ・デュ・シネマ』誌に寄せたより短い撮影日誌を読むと(Héloïse Godet, « Journal de bord », Cahiers du cinéma nº 701, juin 2014, p.28-32)、わざわざ特殊メイクのプロをパリから呼んで、この「兎口」を付けさせていることが分かる。下のクロース・アップのシーンは、せっかく付けた「兎口」がどうもあまり目立たないので、わざわざ撮り足したものなのだという。なぜそこまでして「兎口」の傷跡らしきものを付けたがったのか、おそらく何らかの言語障害を示唆しているのだろうが、そのことは『パッション』(1982)のイザベル・ユペールという先例がある吃音以上に謎めいている。

本書で最も滑稽なエピソードは、企画の立ち上がりの段階の2011年6月初旬に、パリのバッタージャのアパルトマンで面会したときのヌード撮影をめぐるやり取りかもしれない。

ゴダールはゾエ・ブリュノーの身体を見たいと言い出し、彼女も隣室に行って脱ごうとするが、ゴダールはそれを制止し、写真を送ってくれればよい、というようなことを言い出したりもする(それもどうかと思うが)。そのあとに続くやりとりを少し引用しておこう(ちなみに、この個所は『ユリイカ』の抄訳には含まれていない)。

彼〔ゴダール〕はわたしが脱毛しているかどうか尋ねる。そう、たまたまわたしは脱毛していた。彼は女性について、世界の起源について、世界そのものについて、長々と話をする。

——アパッチ族は世界を何と呼んだか? 森、と呼んだんだ。それから《世界の起源》というあの〔クールベの〕絵は、まさに女性の性器を描いているだろ? 世界、茂み、森——まさしく体毛だ! 君のヌードを見たいというとき、つまり「素っ裸の=体毛をあらわにした」〔à poil〕状態で見たいんだよ。そうだろう?

私は譲歩して、ええ、と答えて、はっきりこう言ってしまう。単刀直入に言えば、生えています、毛は……。ああ、よかった! 彼はほっとする。

——また生えさせることができるね? 茂みのように?
——いいえ、レーザーを使ったので……。
——そうか、付け毛を使えるかどうか考えてみよう。
——……。
——それにしても君たちの世代の人たちはまったく問題を抱えているよ……。なぜ何もかも殺菌するのか? 毛もなければ臭いもない。皺もない。理解できんよ。愛し合うとき君たちはどうするんだね?

オーケー、脱毛のせいで役が危うくなることはないのね……。それどころか、わたしの方では、この陰毛かつらのイメージは、友人たちのあいだで一番ウケる冗談話になった。いま思い出しても赤面してしまう。(p.30-31)

ゴダールにおける裸体に関しては、松浦寿輝の『ゴダール (リュミエール叢書)』でもアラン・ベルガラの『Nul mieux que Godard』でもすぐれた表象分析がなされているが、ゴダール作品における「茂み」に注目したことがあるのは、わたしの知る限り、アルベルト・モラヴィアの『カルメンという名の女』(1983)評だけだ。この『軽蔑』の原作者は、ゴダールが「カルメンの太股と腹部のあいだにふさふさしている黒々と生い茂る盛り上がった恥毛」(Alberto Moravia, Trente ans au cinéma, de Rossellini à Greenaway, Flammarion, 1990, p.298)に執着していることを喝破していた。

最後に、犬のロクシーについて。『さらば、愛の言葉よ』には孤独に散歩中の犬のロクシーの姿がふんだんに映し出される。覚書(1)でも記したように、どれもゴダール自身が実際の散歩の際に撮りためた映像だ。

作品中、二組のカップルが実際にロクシーと「共演」することはない(前半、ガソリンスタンドに立ち寄ったときに、乗り込んできた犬を追い払おうとする箇所があるが、画面には犬は映らない)。が、ゾエ・ブリュノーによると、撮影の最終日には犬とのシーンが予定されていたという。映画の後半で、ミエヴィルの声で、ロクシーを家の外に追い出す箇所がある。それに相当するシーンを役者たちを使って撮ろうとしていただけなのか、あるいはより本格的な「共演」を構想していたのか、興味は尽きない。

『思想』のデリダ没後10周年特集

今年は没後10年になるということで、ジャック・デリダの研究書や訳書が続々と刊行されている(ちなみに、ゴダールの最新作『さらば、愛の言葉よ』には、先月日本語訳が刊行された『動物を追う、ゆえに私は〈動物で〉ある』〔鵜飼哲訳、筑摩書房〕の一節も引用されている)。私もささやかながら、『思想』2014年12月号の特集「10年後のジャック・デリダ」に、下記のインタヴューを訳出する機会を得た(この号全体の目次はここ)。

ジャック・デリダ「映画とその亡霊たち」(聞き手:アントワーヌ・ド・ベック、ティエリー・ジュス)、『思想』2014年12月号、312-332頁

思想 2014年 12月号 [雑誌]

思想 2014年 12月号 [雑誌]

本インタヴューは、没後も続々と刊行される(まさに亡霊的なロジックに従って?)デリダの著作のうち、1978年に『絵画における真実』の刊行以来デリダが継続的に取り組んできた視覚文化関係のインタヴューや講演等を集成した以下の書籍に収録されている(Jacques Derrida, Penser à ne pas voir: écrits sur les arts du visible, 1979-2004, textes réunis et édités par Ginette Michaud, Joana Masó et Javier Bassas, Editions de la Différence, 2013, pp. 315-335)。

Penser à ne pas voir

Penser à ne pas voir

このインタヴューはデリダが直接的に映画を話題にした数少ないテクストの一つであり、自身の映画との関わりから、映画の亡霊性、映画における信の様式、映画の大衆性、映像による証言と『ショア』、記憶とアーカイヴ、そしてサファー・ファティの撮ったドキュメンタリー『デリダ、異境から』D'ailleurs Derrida (1999)の撮影体験に至るまで、多岐にわたるトピックについてきわめて率直に語られている。

初出は『カイエ・デュ・シネマ』誌の2001年4月号(Jacques Derrida, « Le cinéma et ses fantômes » (recueilli par Antoine de Baecque et Thierry Jousse), Cahiers du cinéma, nº 556, avril 2001, pp. 74-85)。当時は、『デリダ、異境から』の記憶も新しく(いまではこのドキュメンタリー映画は『言葉を撮る―デリダ/映画/自伝』の付属DVDで手軽に見ることができる)、デリダの映画についての考えはいかなるものか、と心躍らせて読んだことを思い出す。

特に、「映画の経験」を「徹頭徹尾、亡霊性に属してい」るとする発想、つまり、映画的イマージュは「生きているのでも死んでいるのでもな」く、可視性と不可視性の、現象と非現象の、現前と不在のあいだを漂うものであるとする発想、そしてそれを精神分析と結びつけていこうとする思考の構えは、とりわけ魅力的なものにみえたものだった。まぎれもなく映画館におけるフィルム体験から紡ぎ出されたに違いないこうした着想は、画像体験のデジタル化が一般化したいま、急速に忘却されつつあるものなのかもしれない。

訳者解題にも記したように、映画理論の領域においては、ピーター・ブルネットとデイヴィッド・ウィルズの共著による『Screen/Play: Derrida and Film Theory』(1989)のような、いくつかの孤立した事例を除いて、デリダの着想はほとんど等閑視されている状況だ。それだけに――訳者の非力により解題では触れる余地がなかったが――、リピット水田堯の『原子の光(影の光学)』のような、大胆な着想に基づくデリダの思弁の展開には瞠目させられる(『思想』の特集には、リピット水田堯による論考「さらに剰余の愛」〔小澤京子訳〕も掲載されているのでぜひとも併読されたい)。

原子の光(影の光学) (芸術論叢書)

原子の光(影の光学) (芸術論叢書)

3D映画――未来なき発明?

ずいぶん前の話だが、勤務先である関西大学文学部のサイトに、「3D映画――未来なき発明?」と題した小文を寄稿した。ここで読むことができるが、あまり目に付かない場所ということもあり、このブログにも転載しておく。

前エントリーでも触れたように、末尾で言及されているゴダールの『さらば、愛の言葉よ』の3Dの使用法はやはり度肝を抜くものであり、このコラムで挙げている他の作品群とは一線を画している。しかし同時に、『さらば、愛の言葉よ』の映像は、基本的には、左右の映像の視差を、きちんとした立体視を成立させる数値よりわずかに広げることによって、ごく簡単に得られるものでもある。だとするなら、すでに誰かが似たような試みをしていてもよいはずなのだが、寡聞にしてそのような先行例は思い当たらない。思いついても馬鹿馬鹿しくて誰も実行しようとはしなかったのかもしれないし、商業映画の枠組みでそれができるのはゴダールだけなのかもしれない。

■3D映画――未来なき発明?

 2009年にジェイムズ・キャメロンの『アバター』で鳴り物入りの「復帰」を遂げた3D映画は、当初から、否定的な論調で語られがちだった。
 たしかに、テレビへの対抗策として半世紀前に導入されたときの「失敗」をなぜ今さら繰り返すのか、これは入場料の上乗せを見返りに、映画館の上映設備のデジタル化を一挙に進めるための産業の策略なのではないか、そもそも徹頭徹尾、枠取られた平面の体験であるはずの映画に、起伏を「付け加える」という挙措が矛盾をはらむものなのではないか、といった数々の疑問がただちに浮かんでくる。
 しかし、そうした穿った見方を括弧に入れて、ここ数年間の3D映画の試みを思い返してみれば、興味深い作品もけっして少なくない。たとえば、マーティン・スコセッシの『ヒューゴの不思議な発明』(2011)や、サム・ライミの『オズ はじまりの戦い』(2013)は、物語の単純な魅力もさることながら、3Dによって初期の映画史(それぞれ、メリエスと『オズの魔法使』)を再演するという批評的な試みだった。
 また、ドイツの鬼才ヴェルナー・ヘルツォークの『世界最古の洞窟壁画』(2010)は、南仏のショーヴェ洞窟の曲がりくねった自然の壁に描かれた原始の像をとらえるのに、3Dカメラがどれほど威力を発揮するかを余すところなく示した作品だった。その試みは、アルフォンソ・キュアロンが近作『ゼロ・グラヴィティ』(2013)で、3Dによって無重力空間を効果的に再現(というよりは、むしろゼロからコンピュータで創作)していることと通じるだろう。
 逆に、ヴィム・ヴェンダースの『Pina』(2011)や、クリスティアン・ルブタンの演出したショーを多く含む『ファイアbyルブタン』(2012)が3D作品としてはやや物足りないのは、舞台という枠取られた空間を立体化することの難しさと関係しているのかもしれない。
 ところで、昨年暮れに83歳を迎えた巨匠ジャン=リュック・ゴダールの次回作『言語よさらば』〔邦題はのちに『さらば、愛の言葉よ』となった〕は、3D作品だと言われている。21世紀に思いがけず復活したこの最新のテクノロジーに対して、ゴダールがどのような創意で反応を示しているのか、それを見届けるのが今から待ち遠しい。