les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

日本映像学会第41回全国大会のシンポジウム

去る5月30日(土)・31日(日)に京都造形芸術大学で開催された日本映像学会第41回全国大会で、シンポジウム「映画批評・理論の現在を問う――映画・映像のポストメディウム状況について」に登壇したので、忘れないうちにその感想を概要とともに記しておく。なお、ここでのまとめは、登壇者の発言を忠実に再現することを目的とするものではなく、わたしにとって強く印象に残った部分だけをごく選択的に拾ったもので、しかもわたし自身の感想とすでに混じり合ってしまったものなので、思わぬ誤解もあるかもしれないことをお断りしておく。

およそ3時間におよぶシンポジウムの前半では、北小路隆志の司会のもと、パネリストのうちの4名がおのおの20-30分程度のプレゼンテーションを行った。

まず、プロデューサーの岡本英之氏(わたしにとっては、彼がミュージシャン・俳優として出演した濱口竜介の『親密さ』でのしっとりとした歌唱シーンが鮮烈に印象に残っている)が、自身が運営するLOAD SHOWの紹介を軸にしながら、現在の映画の興行・批評を考えるにあたってヒントとなるようないくつもの事例を提供してくれた。LOAD SHOWはストリーミングやダウンロードで自主製作映画の配信を行っているが、とりわけ印象に残っているのは、「これからは配信だ」というような考えで事業を展開しているわけではないという氏の留保である。LOAD SHOWで過去開催したという映画祭の事例――受賞作だけでなく、エントリーされたすべての作品を視聴できるプラットフォームとしても機能する映画祭――にもみられるように、デジタル・プラットフォームは限りない可能性を秘めたものにも思えるのだが……。

もうひとつ印象づけられたのは、批評の不在という話で、映画批評から食べログ的なレビューへの移行がみられるという点。LOAD SHOWのカルチャーサイトには映画をめぐる先鋭的な情報が集約されているが、それと並行して、現在の状況に対するささやかなオルタナティヴを開拓しようとするのが、おそらく、もうすぐ創刊される小雑誌『映画横丁』(編集人は『映画酒場』を発行されている月永理絵氏)なのであろう。一歩間違えば趣味的な自閉に陥ってしまうかもしれない危うい地点での新たな試みに期待が高まるところだ。

続くパネリストの渡邉大輔氏は、ご自身が批評家としてくぐり抜けてきた「ゼロ年代」の批評を振り返りつつ、批評とは何かを考察する。「物語」よりも「構造」が前景化し、たとえば『レザボア・ドッグス』(92)などにその典型が見出される「キャメロンの時代」(安井豊)、東浩紀が『動物化するポストモダン』で提唱した「動物の時代」を引き合いに出しつつ、ひとつには「ネタ化」に自覚的に適応することを特徴とするゼロ年代の批評のあり方を抉り出す内容だったと理解している。

氏が柄谷行人を引いて言うように、みずからの存立基盤そのものを問い直すことが「批判」ならぬ「批評」であるならば、デジタル以降の映像の根本的なアーキテクチャにも氏の関心が向かうのは当然のことだろう。具体的な事例として、実際の都市空間とのフィードバックが作品そのものに組み込まれている瀬田なつきの『5windows』や、濱口竜介の『親密さ』の上映形態が俎上に載せられたことにも、一貫しているという印象を受けた(後者のオールナイト上映の事例はいささか強引であるような気もするが)。

3番目のパネリストの三浦哲哉氏は、最近、岩波文庫で新訳が出たアンドレ・バザンの今日的な可能性を探るべく、彼の長大な論考「演劇と映画」の勘所を読み解く。なかでも、映画の出現以前、ある種の演劇は「幼形成熟」していたにすぎず、たとえば古典的な笑劇がバーレスク映画へと形を変えて復活を遂げたように、演劇は映画という新しいメディウムの登場によって別様の進化の可能性を持ったのだというバザンの着想を受けて、「映画」もまた「幼形成熟」しているのかもしれないのであり、仮に「ポストシネマ」と名付けうるものの潜在的な状態にとどまっているのかもしれないと述べる三浦氏の見立てはたいへん魅力的なものにうつった。

また、わたしが討議でも指摘したように、バザンが「映画」という場を演劇、小説、絵画といった他芸術を(それらの諸芸術の形式もろとも)内包するものとみなしたことは、レフ・マノヴィッチの「ハイブリッド・メディア」という概念と通底していると考えられるし、いずれにせよバザンの「不純な芸術」としての映画という着想がもっている可能性はまだ汲み尽くされていないような気がする。

最後の登壇者であるわたしのプレゼンテーションでは、「映画と他の諸メディウム――テレビ、ヴィデオ、コンピュータ」と題して、映画と他のメディウムとの交渉の歴史を振り返ることで、とりわけレイモン・ベルールを導きの糸としながら、自律した芸術としての映画の観念を相対化することを試みた。まず、「テレビ」に関しては、ダドリー・アンドリューが昨年に編纂した『Andre Bazin's New Media』(バザンのテレビ論、ワイドスクリーン論、3D映画論などの英訳による集成)に触発されつつ、バザン、『カイエ・デュ・シネマ』誌、ヌーヴェル・ヴァーグへの「テレビの美学」の影響をスケッチした。初期ヌーヴェル・ヴァーグへのテレビの影響はことのほか大きく、この議論はさらに発展させてみたいと思っている。

続いて、「ヴィデオ」に関しては、ゴダールの1970年代以降の実践を振り返りつつ、それが60年代ゴダールの「テレビの美学」からの影響と地続きであることを指摘し、ゴダールの他のメディウムとの本格的な格闘は「ヴィデオ」の終焉(具体的には『映画史』)でもって終わったのではないかという問題提起をした。

それ以後、映画と競合する(広義における)「メディウム」は、「コンピュータ」と「美術館」である。マノヴィッチのいうように、過去のあらゆるメディウムは「メタ・メディウム」としてのコンピュータ上のデータに一元化されるという面があるにしても、そうであるがゆえに、かえって、そのデータをどのように出力するかという装置(インターフェース)が無限に多様化するというパラドクシカルな状況があるのではないか。そして、また別の水準において、私たちは現在、「美術館」をはじめとする多種多様な映像の形態に「映画」がかつてなく脅かされているようでいながら、むしろメディウムとしての「映画」の強固さが再認識させられるような状況にいるのではないか。おおむね以上のようなことを指摘した(参考までに、このブログの末尾に発表の際に使ったパワーポイントのスライドを掲げておく)。

その後、休憩を挟んで、青山真治監督藤井仁子からのコメントがあった。その内容を再現するのは難しいが、青山監督のコメントでは、トニー・スコットの投身自殺のニュースを聞いたときにご自身にとっての「映画は終わった」(「死んだ」ではない)と強く感じ、現在は東京と京都を毎週何度も往復しながら教育にも多大なエネルギーを注いでいること、ここ数年間の演劇の演出の仕事を経て、WOWOWの全4話のドラマ『贖罪の奏鳴曲』でかつて映画だったものをやり直すという体験をしたこと、『ユリイカ』(2001)がフランスの批評家フィリップ・アズーリによって当時すでに「ポストシネマ」と形容されたことなどが印象的だった。

藤井氏のコメントは多岐にわたる充実したものだったが、まず、デジタル以降の出来事は映画にとって本当に新しいのか、量的な差異を質的な差異と見誤っていまいかという根本的な問題提起がなされた。その他の指摘のうち、映画のアイデンティティが揺らいでいると言っても、それは今に始まったことではなく、もともと映画は猥雑なものであって(商業でも芸術でもあるという点に明瞭に現れ出ているように)、メディウム・スペシフィシティを追求するようなモダニズム的言説とは相容れないという指摘や、画面の細部に偏執狂的な視線を注ぐシネフィリア的な映画の見方は、一方では映画の本性をインデックス性に見て取ることに、他方では作家性の顕揚に向かうという指摘にはとりわけ強い印象を受けた(なお、シネフィリアに関しては、そのテーマを主題的に論じている数冊の本のほか、藤井氏も言及していたポール・ウィレメンの『Looks and Frictions: Essays in Cultural Studies and Film Theory (Perspectives S.)』所収の論考が大変参考になる)。

以下、わたしの発表のパワーポイントのスライド画像を掲載しておく(クリックで巨大化します)。

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ゴダールの最新インタヴュー

2012年創刊のフランスの映画雑誌『Sofilm』の最新号(Mai 2015, nº30)にゴダールのロング・インタヴューが載っている(p.48-60)。インタヴュアーは、編集長のティエリー・ルナス。映画の製作・配給・出版を精力的に手がけているCapricciの創設者のひとりである。

ところで、前エントリーで書き忘れたが、映画の出版物に関しては、Capricciのコレクションからも目が離せない。出版活動が始まってからまだ十年も経たないはずだが、邦訳のあるモンテ・ヘルマンのインタヴュー『モンテ・ヘルマン語る---悪魔を憐れむ詩』や、編集者ウォルター・マーチの『映画の瞬き[新装版] 映像編集という仕事』にとどまらず、リュック・ムレやルイ・スコレッキやミシェル・ドラエといった「古参兵」たちの評論集、ジョン・フォードヴィンセント・ミネリジョージ・キューカーオットー・プレミンジャーらの古典的映画作家からガレル、デュラス、ブラッケージ、アドルフォ・アリエッタらの前衛に至る作家論、さらにはジャック・ランシエールのベラ・タール論、ペテル・サンディ(Peter Szendy)のアポカリプス映画論や、フレドリック・ジェイムソンやスタンリー・カヴェルの翻訳まで幅広く刊行しているので、いつの間にか、わたしの書棚でCapricciの本がだんだん目立ってくるのも当然だろう(ちなみに、ピアニストのフィリップ・カサールが映画について語り下ろした『二拍子、三楽章』というとても面白い本もあり、彼がもっと有名だったら訳してみたいところなのだが……)。

さて、肝心のゴダールのインタヴューに戻って、いくつか読み所を紹介しておこう。まず、気が早い人のために末尾で明かされている情報から紹介すると、次回作のタイトルだけは決まっているようで、『映像と言葉:青の試み』Image et Parole: Tentative de bleu、あるいは『青の試み』となるそうだ。ただし、このところ企画をスタートする際の一種の導きの糸としてタイトルだけ先に決めるという傾向があり、このインタヴューでも内容に関する説明はいっさいない。

ゴダールは2015年3月に、スイス映画賞の名誉賞を受賞した。インタヴューは、その賞金3万スイスフランを、ニヨンの動物保護団体とエトワの野鳥保護団体とアムネスティ・インターナショナルと自分とで四等分したという話題から始まる。授賞式に行かない代わりにゴダールが作成した5分たらずの短篇が、現時点でのゴダールの最新作だ(YouTube等で手軽に見られるこの作品の理解のためには、このサイト採録が有用である)。杖をついて歩く84歳のゴダールが、『右側に気をつけろ』のスラップスティック的で奇矯なパフォーマンスを年齢相応に演じ直しているかのように(ちなみにインタヴューによると、ゴダールはシャルリ・エブド襲撃事件の後、「脊柱に発作のようなもの」が起きて、一ヶ月半にわたって入院していたらしい)、床に寝そべり、最後に起き上がる身体動作が印象的なこの作品の主題は、ゴダールもインタヴューで語っているように、かつてフランス映画、ドイツ映画、アメリカ映画が存在したようには「スイス映画はもはや存在しない」ということ、そして「慎ましやかな腐敗」(パゾリーニの詩集『グラムシの遺骸』からとったという)としてのスイスである。

ゴダールは『リベラシオン』と『シャルリ・エブド』の長年の愛読者である。『ゴダール・ソシアリスム』に出演している経済学者のベルナール・マリスは、惜しくもシャルリ・エブド襲撃の犠牲となったが、彼を起用したのも『シャルリ』のコラムを読んでいたからだという。ゴダールは、「わたしはシャルリ」という標語にも手厳しく、同じ「Je suis Charlie」でも「suis」を動詞suivreの活用形として読んで「わたしはシャルリを追う」という方がいい、実際に自分は40年間シャルリを追いかけてきたんだから、などと言う(ただし、『勝手にしやがれ』にすでに前身の『アラキリ』Hara-Kiriの売り子が出てくると語っているのは、『カイエ・デュ・シネマ』の売り子との記憶違いだろう)。êtreという動詞(英語でいうBE動詞)を使うとろくなことはないというのは、近年のゴダールがよく強調していることだ。

ギリシャ財政問題についてもゴダールはユーモラスな見解を述べる。クリス・マルケルの13話からなるテレビ番組『フクロウの遺産』L'Héritage de la chouette (1989)を見れば、私たちが「すべてをギリシャの思想に負っている」ことがわかる。この作品を見さえすれば、「ドイツ、ヨーロッパ、ギリシャの間の問題は解決する」、と。さらにゴダールは言う。「文章を作って、「ゆえに」と言うたびに、ギリシャ人たちは著作権料として10ドル受け取るべきであって、そうすればもうギリシャの負債などなくなるだろう」。三段論法もギリシャ人が作ったのだから、ということだろう。

他者の言葉、他者の映像を使ってみずからの作品を作るゴダールは、基本的に知的所有権なるものを認めていないが、それでもよく著作権のことを話題にする。彼は「興味を持った抜粋を、権利のことを気にかけずに使」ってきたが、これまで訴えられたことはないと述べ、判例を得るためだけにでも、ミエヴィルにわざと訴えてもらおうかと思っている、などと語る。しかし、ゴダールは『ゴダールリア王』(1987)でヴィヴィアーヌ・フォレステルのエッセイ(確か『La violence du calme』)を無断で使用したことで本人と出版社から2004年に訴えられ、罰金を支払わせられたはずなのだが、忘れてしまったのだろうか……(訴えられたのが2004年なのは、本作がフランスでは2002年まで封切られなかったからだろう)。ともあれ、法廷で判事が「エヴァン法」と言うたびにエヴァン氏に権利料を払わなければいけないのではないかとか、テレビなどで写真が使われるとき、写真家にだけお金が支払われて、被写体には決して支払われないのはおかしいとか、ゴダールは一見すると突拍子もない例を挙げつつ、権利料の欺瞞に注意を促している。

後者の例は、ただちに、ゴダールが『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)以来、たびたび取り上げている写真家リュック・ドラエが1992年にサラエヴォで撮った、爆発物によって血まみれになって地面に横たわるビリャナ(Biljana)という名の少女の写真のことを思い起こさせる(写真はこのページなどで見られる)。ゴダールは『フォーエヴァー・モーツァルト』で一瞬この写真を画面に出しているが、その際、写真家ではなく、この少女に許諾を求めたという。ちなみに、ゴダールは『映画史』(1988-98)の3Aや『アワーミュージック』(2004)でもこの写真を使っており、さらに『真の偽造パスポート』(2006)ではビリャナ本人が(エステル・フレイの2004年のドキュメンタリー作品『ビリャナ』からの引用で)登場する*1。イメージの流通をめぐる問いかけは、少なくともここ20年にわたってゴダールの主要な関心事であり続けている。

その他にも、ケルアックの『オン・ザ・ロード』を映画化したかったとか(奇妙な名前の村として知られるトゥルース・オア・コンシクエンシーズからクレイジー・ウーマンまでの道のりを描きたかったらしい)、ダニエル=コーン・ベンディットがブラジルのワールドカップに行ったときにスラム街の貧民たちに取材して撮ってきたルポルタージュはひどいとか、コッポラとの共同企画として存在したロサンジェルス・オリンピックの撮影はぜひ実現させたかったとか、パウロ・ブランコとの企画もかつて存在して、資金を前借りしたのだが、彼の母親の病気の療養費のために企画を中止してお金を返却したとか、自分は予算を超過することは決してないとか、月に600ユーロの年金しか受け取っていないとか、このくつろいだ雰囲気のインタヴューには雑多な話題がちりばめられている。

だが、インタヴュー後半で最も興味深いのは、ゴダールがアトリエの窓のない奥まった部屋*2にティエリー・ルナスを連れて行き、3つのディスプレイが配置されているのを見せるところだろう。『にがい米』が映し出されていたというその3つのディスプレイが、正確にどのように配置されているのかまでは残念ながら文章からは読み取れないが、ゴダールがその文脈でアベル・ガンスの『ナポレオン』の三面スクリーンの試みを引き合いに出しつつそれとは違うと述べていることからも、おそらくは見る者を取り囲むようなかたちで置かれているのだろう。彼はさらに、実際にこの3つのディスプレイで編集作業を行ったと述べ、その作業を「彫刻」と比較する。ここには『さらば、愛の言葉よ』の3Dを考えるにあたっての大きなヒントがあるのではないだろうか。

*1:この顛末については、Jean-Christophe Ferrari, « Histoires de Biljana: Droit des images, devoir de reprise », Jean-Luc Godard: Documents, Centre Georges Pompidou, 2006, p.372-375を参照。

*2:ちなみに、このロールのアトリエは、ゴダールとミエヴィルが長年使用していた住居兼アトリエとは異なり、製作会社のワイルド・バンチに最近になって借り上げられた「前哨地点」(ゴダール)である。ちなみに、この奥まった部屋をゴダールは「イギリス人たちのところ(Chez les Anglais)」と呼んでいる。ワイン貯蔵庫として使われていた部屋で、戦争中にこの手の場所にイギリス人飛行士をかくまったことを想起させるからだという。

最近執筆した書評

今日、公開された表象文化論学会のニューズレター『REPRE』の第24号に三浦哲哉氏の『映画とは何か フランス映画思想史』の短評を寄せた。

なお、本号では小特集「人文系出版の現在」が組まれており、特に3名の独立系編集者による座談会がとても面白い。同じく面白い読み物の「各国の出版事情」ではフランス語圏が取り上げられていないが、どなたか適任者によるレポートを読みたかったという気もする。

映画・芸術分野に話を限れば、たとえばSeuilとかMinuitとかFayardとかの著名な版元よりも、Presses Universitaires de Rennesの叢書や、『カイエ・デュ・シネマ』の発行元のCahiers du cinémaや、セルジュ・ダネーやレイモン・ベルールが1992年に創刊した映画雑誌Traficの版元で、より一般的には小説の出版で知られるP.O.L.や、教科書的な書籍を多く出しているArmand Colin、さらにはベルギーのYellow NowローザンヌL'Âge d'Hommeディジョンles presses du réelといった地方の出版社などに個人的にはよく注目している。

なお、このブログで報告する機会を逸したが、少し前に、ランシエール『平等の方法』(航思社、2014年)、およびエリック・ロメールクロード・シャブロルヒッチコック』(インスクリプト、2015年)についても書評を書いたので、まとめて書誌情報を挙げておく。

また、これもやや旧聞に属する話になるが、一昨年刊行した訳書『ニューメディアの言語』(このエントリーを参照)の渡邊大輔氏による書評が日本映像学会の学会誌『映像学』93号に、昨年刊行した編著書『越境の映画史』(このエントリーを参照)の門間貴志氏による書評が、日本映画学会の会報40号(PDF)(2014年9月17日、7-9頁)に、それぞれ掲載された。『越境の映画史』については、まもなく発行される『映像学』94号に応雄氏による書評が掲載されることにもなっている。書評をお書きくださった先生方にはこの場を借りて厚く御礼申し上げたい。

映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)

映画とは何か: フランス映画思想史 (筑摩選書)

平等の方法

平等の方法

ヒッチコック

ヒッチコック

2014年の仕事

いまさらながら、2014年に発表した仕事を備忘を兼ねてまとめておく。昨年、エントリーを立てて報告するのを怠ってしまった事柄としては(それぞれについて、詳しいエントリーを書こうと思っていたのだが、書きかけのまま放置しているうちに年が変わってしまった)、まず1月には3年前に参加した学会から生まれたゴダール論集(The Legacies of Jean-Luc Godard)が刊行された。このエントリーで紹介した発表のほとんどは論文化されて収められている。

4月に刊行された『表象08』では、特集「ポストメディウム映像のゆくえ」の共同討議に参加するとともに、レイモン・ベルールの翻訳とその解説的な記事を寄せた。ほぼ同時期に出たせんだいメディアテークの『ミルフイユ06』でも、「ポストメディア時代の映像」と題して、門林岳史氏(上記の特集の仕掛け人)と三浦哲哉氏が討議を行っている。表象文化論学会のニューズレターRepreの21号でも、「ポスト・ミュージアム・アート」という小特集が組まれており、とりわけ古畑百合子氏の非常に見通しのよい研究ノートは『表象08』の特集とも密接に関連する。

11月にはこのところ熱中していたクリス・マルケルについての二本目の論考を収録したマルケル論集(金子遊・東志保編『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』、森話社、2014年)が刊行された(マルケルについてのもう一本の拙稿は『越境の映画史』に含まれている。またマルケルに関してはこのエントリーも参照)。

ところで、一昨年は勤務校の関西大学表象文化論学会の第8回大会を開催したが、昨年は学会誌『表象』の編集委員長を仰せ付かり、その編集作業に随伴することとなった。執筆者の皆さんと編集委員の尽力によって、4月刊行予定の『表象09』は目下のところ、最後の詰めの段階を迎えており、遠からず目次も公開できるはずだ。

すでに概要にも出ているとおり、メイン特集は「音と聴取のアルケオロジー」。福田貴成氏の司会による共同討議や彼自身の論考に加えて、ジョナサン・スターンやスティーヴン・コナーの論考も掲載する。小特集は「マンガ「超」講義――メディア・ガジェット・ノスタルジー」で、タイトルから予想できるように、石岡良治氏の『視覚文化「超」講義』の番外篇としてマンガを論じたもの。昨年秋の新潟大学での研究発表集会での書評パネルを元にした共同討議を収録している。

厳正な査読を経た4本の投稿論文、および9冊におよぶ書評とあわせて、充実した誌面になっていると思うので、刊行の暁にはぜひ手にとっていただきたいと願っている。


編著書

『越境の映画史』、編著(6人)堀潤之(編著)、菅原慶乃(編著)、西村正男、大傍正規、韓英麗、竹峰義和、関西大学出版部、2014年3月
担当:「はじめに」5-14頁、「「東洋」から遠く離れて――クリス・マルケルによる中国・北朝鮮・日本」211-260頁(総ページ数274頁) 【関連エントリー

論文など

The Legacies of Jean-Luc Godard (Film and Media Studies)

The Legacies of Jean-Luc Godard (Film and Media Studies)

  • 「ベルールの反時代的考察――「35年後――「見出せないテクスト」再考」の余白に」、『表象08』、表象文化論学会、2014年、94-99頁

表象〈08〉

表象〈08〉

クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト

クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト

解説・書評・短評など
  • ゾエ・ブリュノー「ゴダールを待ちながら」(訳=長野督/解説=堀潤之)、『ユリイカ』2015年1月号、112-128頁
口頭発表など
  • 共同討議「ポストメディウム理論と映像の現在」(加治屋健司/北野圭介/堀潤之/前川修/門林岳史)、『表象08』、表象文化論学会、2014年、18-45頁
翻訳
  • レイモン・ベルール「35年後──「見出せないテクスト」再考」、『表象08』、表象文化論学会、2014年3月、78-93頁
  • アルチュール・マス/マルシアル・ピザニ(堀潤之訳)「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」、『ユリイカ』2015年1月号、179-192頁

ゴダールの『さらば、愛の言葉よ』覚書(3) 『ユリイカ』ゴダール特集号

さらば、愛の言葉よ』(Adieu au langage, 2014)が2015年1月31日から公開されるのに先だって、「ゴダール2015」特集を組んでいる『ユリイカ』2015年1月号(目次)が先週末に出た(ほとんどの論考が、やはり映画を見てから読むべきものであることを考えると、出るのがいささか早すぎたという気はする)。わたしは論考とフィルモグラフィを執筆したほか、いくつかの海外文献の翻訳にも関わった。書誌情報は以下の通り(掲載頁順)。

わたしの論考は、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像と、分身および動物のモチーフとの接点をさぐったもの。そこで触れたリルケの『ドゥイノの悲歌』第8歌からの「動物のまなざし」についての引用には、四方田犬彦氏もより詳しく言及している。また、拙稿では特に『ゴダール・ソシアリスム』(2010)以降のデジタル・ゴダールによる新たな映像のテクスチャーを「触覚性」というタームである程度まで説明しようと試みたが、本作の3D映像に関しては平倉圭氏の「新しい種類の透明性」(p.152)を追求しているという指摘に膝を打った。

出演女優のゾエ・ブリュノーによる撮影日誌『ゴダールを待ちながら』については、前エントリーで詳しく触れたとおりだ。

ボードウェルの論考は、彼とクリスティン・トンプソンによる膨大な情報量を誇るウェブログ「Observations of film art」の2014年9月7日のエントリー「ADIEU AU LANGAGE: 2 + 2 x 3D」の抄訳。4つのセクションのうち、「後期ゴダール」のナラティヴ一般について語った最初の部分と、本作の3Dの使用についての所感を記した部分を割愛し、『さらば、愛の言葉よ』のナラティヴ構造を具体的に分析している残りの2セクションを訳出した(そのため副題を付けたのだが、タイトルの「2+2×3D」のうち「×3D」の部分が結局のところ邦訳には存在しないのはご愛敬だ)。このエントリーへの追記もある。

なお、Twitter葛生賢氏も指摘しているように、本号の対談で蓮實重彦氏が「ボードウェルなど、『さらば、愛の言葉よ』を「美しい作品」と言って論じ始めている」(p.84)としているのは事実誤認である。そもそも、一読すれば分かるように、ボードウェルは本作のナラティヴをもっぱら話題にしているのであり、「美」という言葉こそ二度ほど使っているものの(確かに、割愛した箇所で、一度はやや不用意に)、「「ゴダールは美しい」と言うことの無邪気な犯罪性」を体現している典型例とするのは行き過ぎのように感じる。

3Dについての部分を割愛したのは、他の論者がもっと鋭いかたちで触れるだろうと思ったからだが、実際、先にも触れた平倉氏だけでなく、鈴木一誌氏も本作の3D体験を粘り強く考察している。そこでも、3Dの立体像が「平面層の林立と質感の喪失」(p.101)をもたらすとされており、やはりそうした観点から本作の3D映像がもたらす異次元の体験を考え直さなければならないと(早くも)感じている。また、『フラッシュバック・メモリーズ3D』という創意工夫に充ちた3Dドキュメンタリー映画を撮っている松江哲明氏と、『2012』で抽象映画をプルフリッヒ効果(減光遅延方式)を使って3D化するという驚くべき体験を観客にもたらした牧野貴氏もそれぞれの観点からゴダールの3D使用を論じている。

とりわけ、「視神経や網膜を多分に刺激する「危険映像」」からは「新しい表現は出ないし、出したくもない」(p.109)という倫理的態度を明言する牧野氏が(そのことは、『2012』でプルフリッヒ眼鏡をかけてもかけなくてもいいし、どちらの目を減光させてもよいという比類なき自由を観客に与えていることからもうかがえる)、『さらば、愛の言葉よ』の3D映像による「激烈な視覚攻撃」にほとんど肉体的なダメージを受けながら、「ノーマルな現行の手法を採用し、そのシステムを思い切り破綻せせる」ゴダールの試み、しかも「技術的にはあまりに簡単」で、「劇映画の文脈の中で撮ったからこそ多くの聴衆が目を向けた」試みに、それでも大いに触発されている情景には心を動かされる。

もうひとつ訳出したのは、フランスの映画批評サイトIndependencia同人のアルチュール・マスとマルシアル・ピザニによる「ほとんど無限の対話――『さらば、愛の言葉よ』について」。この架空の対話篇は、身も蓋もない言い方をすれば、ゴダール作品の細部にまで通暁したゴダール・マニアによるいささかペダンティックな連想ゲーム的おしゃべりにすぎないかもしれないが、わたしはそもそもこういう蘊蓄が好きなのだ。『ゴダール・ソシアリスム』の際にも細部まで目を配ったエッセイを発表していたこの著者たちについてわたしは何も知らないが、今回も作品の細部に向けるまなざしが光っている。原文は「1 対話の形式(裏面、分身、反映、影)」がここで、「2 「これはいったいどういうことだ?」(想像上の自伝、既視感、夢の物語」がここで読める。続きとして、アレクサンデル・ジュスランによる「3 犬、領土、テレビ画面(想像上の会話)」もあるが訳出はしなかった。

「21世紀のゴダール・フィルモグラフィ」では『愛の世紀』(2001)以降の全作品を解説した。といっても、いわゆる通常の長篇作品は『愛の世紀』、『アワーミュージック』(2004)、『ゴダール・ソシアリスム』(2010)、『さらば、愛の言葉よ』(2014)の4本しかないので、あとはすべて短篇である(『映画史特別編 選ばれた瞬間』を除けば)。現時点での最新作『溜息の橋』Le Pont des soupirsだけ未見なので、フィルモグラフィの解説が尻切れトンボ気味になってしまったのは許してほしい。

ところで、ゴダール作品を見慣れている人なら以下の写真に見覚えがあるだろう。『映画史』3Bや『古い場所』The Old Place、そして短篇『時間の闇の中で』に出てくる、機械仕掛けで激しい動きをみせる白い布である。小沼純一氏は論考の中でこれをジャン・ティンゲリーのものとしており(p.199)、わたしも長らくそう思っていたのだが、フィルモグラフィの『時間の闇の中で』の項でも触れたとおり(p.228)、これは1997年にル・フレノワでドミニク・パイーニが企画した展覧会《Projections. Les transports de l'image》に出品されたピッチ(Pitch)の作品に違いないだろう(このブログでも実は4年前に、このエントリーの註3でそのことを示唆した)。アラン・フレシェールのドキュメンタリー『ジャン=リュック・ゴダールとの会話の断片』を見てもわかるように、ゴダールの「現代美術」に関する知識は、今も昔も、ほとんどもっぱらル・フレノワとの数少ない関わりに由来するものなのだ。