les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

I イメージの運命

ロベール・ブレッソンバルタザールどこへ行く』(1966年)の冒頭(11-13頁)

 クレジット・タイトルとそれに続く三つのショットのうちに、私たちはあるイメージ性の体制——すなわち、諸々の要素と機能のあいだの関係の体制——全体を手にしています。それはまず、黒または灰色の画面が持っている中立性と、音響的なコントラストとの対立です。くっきりと切り離された音符でまっすぐに道を進む〔シューベルトの〕メロディーと、それを中断する啼き声は、すでに、来るべき寓話の緊張を余すところなく与えています。このコントラストは、黒い毛並みに置かれる白い手という視覚的対立によって、次いで声と顔の分離によって中継され、その分離は、今度は、言葉による決断とそれに対する視覚的な反論、連続性を強めるディゾルヴという技術的手法とそれが私たちに見せる逆の効果が連鎖することによって引き継がれています。
 ブレッソンの「イメージ」とは、一匹のロバと二人の子供と一人の大人のことではないし、クロース・アップの技術と、それを拡張するカメラの動きやディゾルヴだけのことでもありません。それは、見えるものとその意味作用、あるいは言葉とその効果を結びつけたり引き離したりする諸操作、諸々の期待を生み出したり挫いたりする諸操作のことなのです。こうした諸操作は、映画という媒体の諸特性に由来するのではなく、その通常の使い方に対する体系的な隔たりを前提としてさえいます。「普通の」映画作家であれば、父親の心変わりについて、いかに小さなものであれ、手がかりを与えてくれるでしょうし、洗礼のシーンをより幅広くフレーミングして、カメラを上昇させたり、補足的なショットを導入したりして、儀式の最中の子供たちの表情を見せてくれるでしょう。
 ブレッソン的な断片化は、映画を演劇や小説と同列に置く人たちがやるようなナラティヴの連鎖の代わりに、この〔映画という〕芸術に固有の純粋なイメージを与えてくれるのだ、という反論がなされるでしょうか? しかし、医者のボヴァリーがエンマ嬢の爪を、あるいはボヴァリー夫人が公証人見習いの爪をじっと見つめることが文学に固有であるわけではないのと同様、カメラが水を注ぐ手と蝋燭を掲げる手を見つめることは、映画に固有ではありません。それに、断片化は、ナラティヴの連鎖を単に断ち切るだけでなく、それに対して二重の作用をほどこしています。〔つまり、〕手を表情から分離することで、断片化は行為をその本質にまで還元しているのです——洗礼とは、言葉と、頭に水を注ぐ手のことである、というわけです。ブレッソンの映画は、行為を知覚と運動の連鎖へと引き締めることで、また理由の説明を短絡させることで、映画に固有の何らかの本質を実現しているわけではなく、フローベールによって開かれた小説の伝統——同一の手続きが意味を生み出すと同時に取り消し、知覚・行為・情動の結びつきを保証すると同時に解体する、両義性の伝統——に連なっているのです。〈見えるもの〉の言葉なき直接性が、おそらくはその伝統の効果を先鋭化させているとしても、その先鋭性はそれ自体、映画を造形芸術から分け隔てて、文学に近づける能力——すなわち、何らかの効果を前もって見越した上で、それをよりうまくずらしたり裏切ったりするという能力——の戯れによって作用しているのです。

ディドロ『聾唖者についての書簡』(22-23頁)

 この箇所は、図版があった方がはるかにわかりやすいのだが、残念ながら散逸してしまって見あたらない。

イメージのこの二重の機能は、〈見えるもの〉と〈見えないもの〉――たとえば、ある感情とそれを表現する言語的な譬喩――のあいだに安定した諸関係の秩序があることを前提にしているだけでなく、デッサン画家の技能がそれによって感情を翻訳し、譬喩を移し換えるところの表現の諸特徴をも前提にしています。『聾唖者についての書簡』でのディドロによる証明を参照してみましょう。死にゆくアイアスを描いたホメロスの詩句のうち、ある一つの単語の意味が改変されると、ただ神々の前で死ぬことだけを要求していた男の苦悩が、死にゆく際に神々に立ち向かう反逆者の挑戦となるのです 。本文に添えられた〔二枚の〕版画が、読者にその証拠を与えてくれます。読者は、アイアスの表情のみならず、両腕の構え方や体勢そのものまでが一変するのを目にするからです。一つの単語〔の意味〕が変えられると、まるで異なる感情が得られ、その改変はデッサン画家によって正確に転写されることができるし、またそうされねばならないのです。

●《楽しませよう》展/《スペクタクルを超えて》展(38頁)




左:チャールズ・レイ《Revolution Counter-Revolution》(1990)
右:マウリツィオ・カテラン《Stadio》

こうした二つの態度のあいだの移行は、最近のある展覧会のうちにはっきりと感じられました——その展覧会は、ミネアポリスでは《楽しませよう》〔Let’s entertain〕というタイトルで、パリでは《スペクタクルを越えて》〔Au-delà du spectacle〕というタイトルで展示されました。アメリカのタイトルは、批評的な真剣さから解放された芸術というゲームをすると同時に、レジャー産業に対する批評的な距離を表明するよう促していたのに対して、フランスのタイトルの方は、ギー・ドゥボールの文章における受動的なスペクタクルの能動的な対立物として、ゲームを理論化するということを当て込んでいました。観客はそのため、チャールズ・レイの回転木馬や、マウリツィオ・カテランの巨大な卓上サッカー・ゲームに隠喩的な価値を付与し、他の芸術家たちが再加工したメディア的なイメージや、ディスコの音や、商業的なマンガを通じて、ゲームから半ば距離を取ることを要請されていたのです。(38頁)

●《そこにある》展(39頁)

 2001年にパリ私立近代美術館で開催された展覧会。スキャンしていない(しかも、しにくい)ので省略する。

 インスタレーションという装置も、訪問者の目の前に、異質な諸要素がもたらす批評的なショックというよりは、共通の歴史と世界についての証言の総体を置くことで、記憶の劇場へと変化し、芸術家を蒐集家、記録保管人、あるいは〔ショーウインドーの〕飾り付け係にすることができます。こうして、展覧会《そこにある》は、なかんずく、ハンス=ペーター・フェルドマンが撮った〇歳から百歳までの百人の人物の写真、クリスチャン・ボルタンスキーによる電話加入者たちのインスタレーション、アリギエロ・エ・ボエッティによる七二〇通のアフガニスタンからの手紙、ベルトラン・ラヴィエが、作者の姓だけによって結びつけられた五〇枚の絵を展示することに用いたマルタンの部屋などを並べ立てることによって、一世紀の要点を繰り返し、世紀という概念そのものを図解しようとしていたのです。

ジョージ・ロジャーによる収容所の写真とレンブラントの屠殺された牛(40-41頁)




展覧会《収容所の記憶》で展示されたジョージ・ロジャーによる一枚の写真は、顔の見えない死体の背中を私たちに示し、死体を運んでいる捕虜のSSは頭を傾げているため、そのまなざしは私たちの視線を逃れています。この頭部の欠けた二つの身体の恐るべき組み合わせは、犠牲者と加害者に共通する非人間化を模範的に表すイメージを私たちに提示しています。しかし、そうであるのは、もっぱら、私たちがそれを見るまなざしが、レンブラントの屠殺された牛〔一六五五年〕を熟視することを経てきたから、すなわち、人間と非人間、生者と死者、動物と鉱物が等しく濃密な文章や厚く塗られた絵の具のうちに混ざり合って、それらの境界が消し去られるということこそが芸術の力であるとしたありとあらゆる表象の形態を経てきたからなのです。

トリュフォー大人は判ってくれない』のラスト(41-42頁)

 セルジュ・ダネーがこだわっていた静止画面。注でも挙げられているダネーの論考については、遠からず刊行されるはずの『写真空間4』(青弓社)の拙論で注釈している。


この問いこそが、セルジュ・ダネーが晩年の文章で展開した醒めきった考察に着想を与えていました。イメージの通常の循環を撹乱すると主張するあらゆる形態の批評、戯れ、アイロニーは、まさにその循環によって組み入れられていたのではなかったか? 現代的で批評的な映画は、物語の叙述と意味の結合を宙吊りにすることによって、メディアと広告のイメージの流れを中断すると主張してきたが、そのような宙吊りは、トリュフォーの『大人は判ってくれない』〔一九五九年〕の最後に出てくる静止画面によって、象徴されてきた。しかし、こうしてイメージに置かれた刻印も、最終的には、ブランド・イメージの大義に奉仕するのであって、切断とユーモアに基づく諸々の手続きは、それ自体、広告の常套手段となったのだ、すなわち、広告がその図像【イコン】を崇拝させるとともに、まさにその崇拝をアイロニー化しうるという可能性によって、その図像【イコン】に対する好意的な態度を抱かせるための手段となったのだ、と。

エドゥアール・マネの《天使たちに支えられる死んだキリスト》(44頁)


実際、ティエリー・ド・デューヴは、マネとその後裔たちのモダニズムを、彼の「スペイン」時代の一枚の絵、すなわち、リバルタの絵に触発された《天使たちに支えられる死んだキリスト》に基づいて定義しています。マネによる死んだキリストは、その手本とは違って、目を開いて、観客と向き合っており、かくして「神の死」が絵画に付与した置換の作業をアレゴリー化しています。死んだキリストは、絵画的現前の純粋な内在性のうちに復活するのです。