les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

マノヴィッチ『ニューメディアの言語』関連文献

前エントリーでお知らせしたマノヴィッチの『ニューメディアの言語』の刊行を機に、このエントリーではニューメディア論の関連文献をいくつか挙げておく。

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

ニューメディアの言語―― デジタル時代のアート、デザイン、映画

まず、マノヴィッチ自身は、この夏に『ニューメディアの言語』の続編ともいえる『ソフトウェアが指揮を執る』(Software Takes Command, Bloomsbury Academic, 2013)を刊行している。すでに『ニューメディアの言語』でも、ニューメディアは「プログラム可能」なデジタルデータから成っており、メディアとしてもはや固有のかたちを持っていないのだから、既存のメディア論の枠組みを超えて、コンピュータ・サイエンスの助けを借りた「ソフトウェア・スタディーズ」への道を進まなければならない、という視点が提示されていた。この続編では、まさにその発想をベースに、情報化社会のあらゆる作用をそもそも可能にしている「ソフトウェア」というレイヤーに注目することの重要性が強調されている(ついでに言えば、本書で提唱される「ハイブリッド・メディア」の好例として、藤幡正樹の《フィールド・ワーク@アルザス》も詳しく分析されている)。

マノヴィッチは「ニューメディア」を、コンピュータ計算の歴史とメディア・テクノロジーの交叉する地点とみなしており、ジャネット・マレーとともにマノヴィッチが序文を寄せている『ニューメディア読本』(Noah Wardrip-Fruin and Nick Montfort (eds), The New Media Reader, MIT Press, 2003)は、その方向性で編まれたアンソロジーである。ヴァネヴァー・ブッシュの「われわれが思考するごとく」をはじめ、チューリング、リックライダー、エンゲルバート、サザランドらによるコンピュータ設計をめぐる古典的な論文と、マクルーハンからボルターに至るメディア論の流れが、一望のもとに収められているのだ。ちなみに、前者の系列に関しては、日本でも『思想としてのパソコン』(西垣通編、NTT出版、1997年)というすぐれたアンソロジーがある。

The New Media Reader (The MIT Press)

The New Media Reader (The MIT Press)

思想としてのパソコン

思想としてのパソコン

マノヴィッチはほかにも、『ソフトシネマ』(SOFT CINEMA: Navigating the Database, MIT Press, 2005)という、『ニューメディアの言語』で論じられる「データベース映画」をみずから実践したDVD作品を出版しているが、より興味を惹くのは、ロシアの視覚文化論を集成した『Tekstura』という論集(Alla Efimova and Lev Manovich (eds, trans.), Tekstura: Russian Essays on Visual Culture, University of Chicago Press, 1993)だろう。エイゼンシュテインバフチン、ユーリー・ロトマンらによる古典的なテクストから、ボリス・グロイスやミハイル・ヤンポリスキーの刺激的な論考までを含むアンソロジーを93年の時点で編んでいることには、マノヴィッチの知的出自の一端がうかがえる。実際、『ニューメディアの言語』のマーク・トライブによる序文でも触れられているように、マノヴィッチは初期の文章「全体主義的なインタラクティヴィティについて」で、勃興しつつあったインターネットを、カリフォルニア的なテクノ・ユートピアニズムから遠く離れて、「スターリン時代の共同住宅」になぞらえるというユニークな視点を提示していたのだった。

Tekstura: Russian Essays on Visual Culture

Tekstura: Russian Essays on Visual Culture

なお、手前味噌になるが、マノヴィッチの他の論考(『ニューメディアの言語』には含まれていない論考)として、「リアリティ・メディア──DV、特殊効果、ウェブカム」が、拙訳により『InterCommunication』50号(Autumn 2004、80-93頁)に掲載されていることも付記しておく。

『ニューメディアの言語』は、ウィリアム・J・ミッチェル(惜しくも2010年に亡くなった)のもはや古典的なデジタル写真論『リコンフィギュアード・アイ──デジタル画像による視覚文化の変容』(福岡洋一訳、アスキー、1994年)への批判を足がかりにしてニューメディアの諸原則を定めているが、『ニューメディアの言語』の議論を叩き台にして、ベルクソンのイマージュ/身体論に基づくまったく別の哲学的観点からニューメディア・アートの可能性を探るのが、マーク・B・N・ハンセンの『ニューメディアのための新しい哲学』(Mark B. N. Hansen, New Philosophy For New Media, MIT Press, 2004)だ。マノヴィッチがデジタル視覚文化のうちに「映画」に基づく文化的インターフェースや外観の優位を見て取ることは「経験的な観察」としては正しいかもしれないが、それでは「デジタル画像」の新しい存在論的な地位を十分に理論化することはできない、というのが彼の批判の要諦である。なお、ハンセンがウィリアム・J・T・ミッチェルと共編した『メディア・スタディーズの批評用語集』(W.J.T. Mitchell and Mark B.N. Hansen (eds), Critical Terms for Media Studies, University of Chicago Press, 2010)は、「芸術」「身体」「イメージ」「記憶」「サイバネティクス」「ニューメディア」「言語」「法」「ネットワーク」等々の21のキータームを取り上げた論文集であり、非常に内容が濃いものとなっている(ちなみに、ちょっと紛らわしいが、編者の一人のミッチェルは、上記の『リコンフィギュアード・アイ』のミッチェルとは別人)。

Critical Terms for Media Studies

Critical Terms for Media Studies

  • 作者: W. J. T. Mitchell,Mark B. N. Hansen
  • 出版社/メーカー: University of Chicago Press
  • 発売日: 2010/03/15
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近年の映像を取り巻く多種多様な言説を見事にマッピングした北野圭介の『映像論序説』でも、『ニューメディアの言語』が「画面論」の一つの例として第1章第1節で俎上に載せられている。『映像論序説』は、本書に一定の評価を与えつつ、マノヴィッチが映像表現の根底的な作動原理を「サンプリング」と「合成」に見て取っているとして、そのようなフォーマリズム的な映画論の系譜への肩入れが、バザン的なリアリズムの問題――映像と現実なるものの関係性の問題――を回避してしまっていると指摘する。確かに、世界のイメージ化の契機はマノヴィッチにあってはほとんど等閑視されており、それが彼の議論の構えにおけるひとつの盲点であるとは言えるだろう。だが、それは必ずしもマノヴィッチの議論の瑕疵というわけではなく、北野自身も他の論考(「ニュー・メディア、オールド・メディア――メディア研究の新しい展開」、『アメリカ研究』39号(2005年3月)、63-83頁)で強調しているように、マノヴィッチの議論は「ニュー・メディアを含めメディアの、享受者=人間存在に対する関係性に、幾層もの構成契機や可能性を見出し直し、押し開いていくものとなっている」(80頁)ことにかわりはない。理論的な水準でも、マノヴィッチの議論のはらむ広範な射程はまだ論じきられていないと言えるだろう。

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

映像論序説―“デジタル/アナログ”を越えて

『ニューメディアの言語』をめぐる批評的な応答については、他にも、写真史家のジェフリー・バッチェンによるものが面白い。“Electricity Made Visible”と題された彼の論考は、前エントリーでも指摘した、メディアとコンピュータの収斂のエンブレムとしてのコンラート・ツーゼのフィルムを標的として、そのオルタナティヴを写真史から掘り起こす。メディアとコンピュータの歴史は、ツーゼのフィルムで1930年代末にはじめて交叉するのではなく、すでにその100年前に、チャールズ・バベッジの解析機関と、トールボットが彼に送ったレースの写真の結びつきにおいて、すでに交叉していたのだ(“Electricity Made Visible,” in Wendy Hui Kyong Chun and Thomas Keenan (eds), New Media, Old Media: A History and Theory Reader, New York: Routledge, 2006, pp.27–44)。ちなみに、バッチェンの論考が含まれているこの論集は、数あるニューメディア関係の論文集のなかでもとりわけすぐれたものと言える。

New Media, Old Media

New Media, Old Media

また、「訳者あとがき」でも触れたように、『オクトーバー』誌の100号の、「編者一同」の署名(おそらく実際にはロザリンド・クラウス)によるイントロダクションには、刊行されたばかりの『ニューメディアの言語』への冷ややかな言及がある。実際、クラウスのポスト・メディウムの概念と、マノヴィッチ的なニューメディア論の突き合わせは、今後、試みてみる価値があるだろう。私としては、さらにそこにフランス系の映像理論(とりわけ、レイモン・ベルールが「諸々のイメージの間」Entre-images、ないし「装置間の争い」La Querelle des dispositifsといった概念ではや20年以上追究している領域)がどのように介在しうるかということにも大いに興味があるが、そのあたりの課題については今後じっくり取り組むことにしたい。