les signes parmi nous

堀 潤之(Junji HORI) 映画研究・表象文化論

アンヌ・ヴィアゼムスキー『彼女のひたむきな12カ月』書評

1966年夏からその翌年にかけてのゴダールとの出会いから結婚までのいきさつを振り返ったアンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説『彼女のひたむきな12カ月』(原正人訳、DU BOOKS、2016年)の書評を、産経新聞に寄せた。ここで読むことができる。

彼女のひたむきな12カ月

彼女のひたむきな12カ月

ヴィアゼムスキーがロベール・ブレッソンの『バルタザールどこへ行く』(1967)の撮影体験を語った旧作『少女』Jeune fille (2007)については、このエントリーで触れた。『彼女のひたむきな12カ月』Une année studieuse (2012)は、実質的にはその続篇といえるだろう。小説としてはあまりにも仕掛けがなく物足りないし、読んでいて赤面するような恥ずかしいエピソードが続出するが、それを何の衒いもなく平明かつ清澄な文体で淡々と綴っていくのは、作家魂というべきか、厚顔無恥というべきか迷うところ。ある種の魅力を放つ文体であることは間違いない。

なお、山内マリコ氏による解説でも触れられているように、本書には『一年後』Un an après (2015)というさらなる続篇もあり、そこでは68年5月の渦中に置かれたゴダールたちの姿が活写されており、ルイ・ガレルの主演による映画化も決まっているようだ。

また、本書でも語られているように、ヴィアゼムスキーは『男性・女性』などのスチル写真を担当していたマリリュ・パロリーニの手引きで、写真の道に足を踏み出す。その成果はすでに、『写真』Photographiesと題された写真集に結実しており、『ウイークエンド』などの撮影風景に加えて、たとえば『彼女のひたむきな12カ月』に出てくるナジャという名のイヌをバスタブで洗っているゴダールの姿といったプライベートな写真も多く収録されている。アマチュアのスナップ写真にしか出せないような、撮影者の親密なまなざしが伝わってくるような写真、しかしどこか冷静さが支配しているような写真には、彼女の文体にも似た手ざわりがある。

Photographies

Photographies

彼女にやや先立って、おずおずと写真機を手に取り、『アルファヴィル』の活気に満ちた撮影現場を写真に収めた日本人がいることも忘れてはなるまい。その人物は、言うまでもなく山田宏一氏で、2013年に出版された写真集『NOUVELLE VAGUE』は、ヴィアゼムスキーの撮ったポートレートとはまた違った意味で、魅力的な写真にあふれている。特に、「念力だけで」撮ったという、薄暗い屋根裏部屋でのアンナ・カリーナの写真には胸が熱くなること請け合いだ。

『表象』というメディウム、ほか

今日、ウェブ上に公開された表象文化論学会のニューズレター『REPRE』27に、「『表象』というメディウム」と題した小文を寄せた。『表象09』『表象10』の2号にわたって編集委員長を務めた体験を振り返りつつ、学会誌のあり方についての雑感を綴ったものである。

表象10:爆発の表象

表象10:爆発の表象

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

ちなみに、『表象10』は過去最大のボリュームで、「ネゴシエーションとしてのアート」特集号の『表象05』と同じ336頁。残念ながら、この号は『表象08』とともに版元品切れとなっている。上述の雑感では記さなかったが、品切れ・重版未定の号を今後どうするのか、投稿論文のヴィジビリティをどうさらに上げていくか、といったことも『表象』の今後の課題だろう。

新刊紹介のコーナーにも、昨年末に刊行したアンドレ・バザンオーソン・ウェルズ』の短い紹介文を書いた。

映画・映像関連書としては、他にも記念碑的な刊行物である『「記録映画」復刻版』(阪本裕文・佐藤洋解説、不二出版、2015年12月)、スピルバーグ入門にふさわしい豪華本のリチャード・シッケル『スピルバーグ その世界と人生』(大久保清朗・南波克行訳、西村書店、2015年12月)、ドイツ語圏で評判の高かったベルント・シュティーグラー『写真の映像』(竹峰義和・柳橋大輔訳、月曜社、2015年12月)が紹介されている。シュティーグラーの写真論のフランス語訳版には、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンが序文を寄せており、その内容も気になるところだ。

オーソン・ウェルズ

オーソン・ウェルズ

特集上映〈ゴダールと政治〉

本日から一週間にわたってポレポレ東中野で開催される特集上映〈ゴダールと政治〉で、ジガ・ヴェルトフ集団期を中心とするゴダール作品が10本まとめて上映され、わたしが執筆した各作品の解説が劇場で配布されることになっている。一作品につき4000字程度の分量があるので、それなりに読み応えのある解説になっていると思う。

上映される10作品は、ゴダールが1967年末公開の『ウイークエンド』で商業映画と訣別し、通常の映画配給ルートには乗らない戦闘的映画の製作に身を投じてから、ジャン=ピエール・ゴランとの共同監督作品『万事快調』(1972)で一時的に商業映画に復帰するまでの期間をほぼ網羅している(この時期の完成した長篇作品としてはあと『ワン・プラス・ワン』があり、その他、『ワン・アメリカン・ムービー』などの未完の作品がある)。

上映作品はおおむね製作順に、『ウイークエンド』、『たのしい知識』、『ありきたりの映画』、『ブリティッシュ・サウンズ』、『プラウダ』、『東風』、『イタリアにおける闘争』、『ウラジミールとローザ』、『万事快調』、『ジェーンへの手紙』(中篇)となる(この時期の作品にはクレジットの問題が付きまとうが、簡単に言えば、『ありきたりの映画』まではゴダールの単独名義、『ブリティッシュ・サウンズ』から『ウラジミールとローザ』までの5作品がジガ・ヴェルトフ集団作品、『万事快調』と『ジェーンへの手紙』はジャン=ピエール・ゴランとの共同監督作品となる)。

太字にしたタイトルの解説は、今回の上映に際しての書き下ろし(この劇場配布以外で入手する機会も当面ないだろう)。『たのしい知識』の解説は、配給元のアイ・ヴィー・シーが2013年に出したDVDに付属する冊子からの転載。他の4作品の解説は、同じくアイ・ヴィー・シーが2015年に出した『ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団Blu-ray BOX deux』(DVDボックスもあり)のブックレットからの転載である。

太字タイトルの5作品と『たのしい知識』が収められている2012年発売の『ジャン=リュック・ゴダール+ジガ・ヴェルトフ集団 Blu-ray BOX』は、装いを改め、この特集上映終了後にDVDボックスとして発売されることになっている。

この10本のうちどれを見ればよいのか? いちばん見やすいのは、商業映画作品の2作、ゴダールのペシミズムの極地を示す『ウイークエンド』と、どちらかと言えばゴランの明晰さ、陽気さが前面に出ている『万事快調』であろう。わたし自身、1996年に広瀬プロダクションが配給した『万事快調』を劇場で見たのが、この時期のゴダールの最初の体験だったように記憶している。

ジガ・ヴェルトフ集団作品としては、やはり『東風』がいちばん見応えがある。「黒板としての映画」を目指していたこの時期の作品に「見応え」を求めるのは、それ自体、反動的な身振りであろうが、ローマ近郊で撮られた偽‐西部劇がもたらす視覚的快楽はそれでも魅力的である。

その他、ストローブ=ユイレが激賞した『ありきたりの映画』、シカゴ・エイトの裁判をさらに笑劇と化した怪作『ウラジミールとローザ』、アルチュセールを涙させたという『イタリアにおける闘争』、等々、どの作品にもそれぞれの見所があるので、ぜひこの機会にゴダールが最もラディカルに映画という表象の破壊に挑んだ作品群を堪能してほしい。

ブレッソンの『白夜』

一週間ほど前から、これまで世界のどこでもビデオにもDVDにもなっていないロベール・ブレッソンの『白夜』(1971)が、2012年に本作品をリバイバル公開したエタンチェの制作によって、Blu-ray DISCとしてアマゾン限定で発売されているが、その封入リーフレットに解説を寄せた(「『白夜』解説」、2-17頁)。

ロベール・ブレッソン監督『白夜』Blu-ray

ロベール・ブレッソン監督『白夜』Blu-ray

リーフレットには、シネフィル・イマジカの山下泰司氏による「『白夜』マスターについて」という短い文章も収められており、それによるとマスターは2012年に日本でリバイバル上映された際に作られたピエール・ロム監修の上映用プリントをHDテレシネしたもので、そこからBlu-ray化に際してさらにデジタル修復が施されている。音声はテレシネ時にオノ セイゲン氏がノイズ修復・マスタリングしたものとのこと。

ジャケットのデザインは塚本陽氏。リバーシブルなのも嬉しい。モノとして所有する喜びを増幅してくれる、細部まで行き届いたデザインだ。リーフレットもシンプルで綺麗だ。

これまでソフト化もされず、画質の悪い海賊版以外では見るのが困難だったこともあり、『白夜』について書かれた文章は世界的にも少ない。

とはいえ、日本では、初公開時(1978年2月25日)に、辻邦生氏(『毎日新聞』3月6日夕刊)と蓮實重彦氏(『朝日新聞』3月22日夕刊)による読み応えのあるエッセイが書かれている(後者は『シネマの記憶装置』に収録。両方とも、1999年の東京国際映画祭におけるブレッソン・レトロスペクティヴの際に刊行されたカタログに再録されている)。

それだけでなく、2012年のエタンチェによる再公開時に発行された劇場用パンフレットもある。山城むつみ、伊藤洋司、福田桃子、葛生賢の各氏による、それぞれの仕方でこの作品の核心を突く充実した論考に加えて、行き届いたシナリオ採録も収められている。もはや入手困難かもしれないが、『白夜』を、そしてブレッソンをより深く理解するためには必読であろう。

ブレッソンとはまったく異なる資質の持ち主であるヴィスコンティの『白夜』(1957)と見比べるのも一興だろう。こちらはやや甘ったるいロマンスに堕しているという印象は否めないが、それでも、ヒロインが下宿人とともに『セビリアの理髪師』を見に行くオペラハウスのシーンや、雪の中で下宿人とともに去って行くラストシーンなど、いくつかのシーンは忘れがたい。ドストエフスキーの原作は、何種類か訳があり、わたしはロシア語を解さないので訳文の印象だけでの判断となるが、いみじくも『やさしい女』とカップリングされている井桁貞義訳が好みだった。

やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

やさしい女・白夜 (講談社文芸文庫)

佐々木敦『ゴダール原論』書評

佐々木敦氏によるゴダール『さらば、愛の言葉よ』(2015)のスリリングな読解の書『ゴダール原論』(新潮社、2016年1月)の書評を、先日『産経新聞』に寄せたのに引き続いて、今日発売される『週刊読書人』にも書いた。前者のものはウェブ上でも読める

ゴダール原論: 映画・世界・ソニマージュ

ゴダール原論: 映画・世界・ソニマージュ

ゴダールの異形の3Dの使用法を読み解くための補助線として、本書ではジョナサン・クレーリーの『観察者の系譜』(遠藤知巳訳、以文社、2005年)に加えて、赤瀬川原平の『ステレオ日記――二つ目の哲学』(大和書房、1993年)と吉村信・細馬宏通編著の『ステレオ――感覚のメディア史』(ペヨトル工房、1994年)が参照されているのだが、特に後者はめっぽう面白い。

コラム形式で、チャールズ・ホイートストンの両眼視の実験から、カイザーパノラマに言及するベンヤミン、近眼の人を「物のさとりがわる」く「常識に欠けて居るといふようなことがある」と強弁する正岡子規を経て、ステレオ写真家としてのハロルド・ロイド伊藤大輔ムルナウに至るまで、思わずさらに掘り下げたくなる興味深いエピソードが満載だ。3D映画を考えるにあたっても、ぜひ再読されるべき本である。